八ッ場ダム事業による遺跡の発掘調査で、縄文遺跡から人骨が多数出土したことが群馬版の紙面で報道されました。
 縄文人の人骨が出土した林中原Ⅱ遺跡は、八ッ場ダム水没予定地域の中ほどにある林地区の、道の駅「八ッ場ふるさと館」の上流側に位置し、現在は遺跡があった場所を草津方面へ行く付替え国道が走っています。

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 八ッ場ダムの水没予定地には遺跡が多数あり、群馬県埋蔵文化財調査事業団がダム事業の予算で発掘調査を進めています。
 一部水没予定地の林地区では、水没する道路や宅地等を水没線より標高の高い地区内の土地に移転させるため、代替地が造成され、これに先立って、非水没の代替地でも発掘調査が行われてきました。

 林地区は吾妻川の右岸にある集落で、南向きの緩やかな河岸段丘が広がり、湧水に恵まれていたことから、八ッ場ダム事業による発掘調査により、縄文時代の早期から台地上に集落が形成されたことが明らかになってきました。
 縄文人の人骨や土器が出土した林中原Ⅱ遺跡においても、120軒以上の住居跡がみつかり、縄文中期から後期に至る大集落の存在が確認されています。
 ダム事業による発掘調査の成果が報道されることはめったにありません。今回の報道で取り上げられた遺跡は、2008~2009年に発掘調査が行われ、2013年から始まった整理作業が現在も継続中とのことです。

◆2016年1月31日 東京新聞群馬版
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201601/CK2016013102000176.html?ref=rank
ー林中原II遺跡(長野原町)縄文人人骨 事業団調査で県内最古 4500~5000年前 土坑で焼くー

 県埋蔵文化財調査事業団(渋川市)が発掘調査した長野原町の林中原II遺跡で、縄文時代中期から後期の焼かれた人骨(焼骨)の破片が多数出土したことが分かった。古い焼骨は四千五百~五千年前にさかのぼり、事業団の調査では県内で最古の人骨。出土状態から葬送儀礼を営んだとみられ、縄文人の死生観をうかがわせる興味深い発見といえる。 (菅原洋)
 発掘調査は八ッ場(やんば)ダムの代替地工事に伴って進め、焼骨は二〇〇八~〇九年度に出土した。事業団が焼骨を分析した結果、貴重な出土物と判明、今年三月にまとめる報告書に盛り込む。
 焼骨が出土したのは、直径約百メートルの環状に設けられた集落の跡。中央付近で出土した約十基の土坑から焼骨が見つかった。
 土坑は円形や楕円(だえん)形に近い。直径は一メートル数十センチほどが多く、深さは五十センチ前後。焼骨は土坑の底部から数センチ上部にかけて出土した。
 焼骨は破片で、大きい骨は五センチ程度あった。成人が多く、体のさまざまな部分が無数にあった。一つの土坑に一人ずつ埋葬したとみられる。土坑内から土器の破片も出土した。
 焼骨と土坑は縄文時代から弥生時代にかけて東日本各地で出土しているが、これほどまとまって出土したのは県内では初めてという。
 県内は火山に囲まれ、酸性の火山灰土壌が骨を残りにくくしているとされる。焼骨は焼けたことで水分がなくなり、骨の分解も進まず、残ったとみられる。
 発掘調査の整理を担当している事業団の山口逸弘(としひろ)上席専門員兼資料課長は「土坑に焼けた痕跡と炭があったため、中で骨を焼いたのは間違いない。土坑は環状集落の外れではなく、中央付近にあるので、何らかの葬送儀礼を営んだ可能性が高い」とみている。
 一方、英国のオックスフォード大大学院や東京大大学院で人類学を学び、事業団にも在籍した生物考古学研究所(高崎市)の楢崎修一郎所長は、出土した現地を見た上で焼骨は土坑で「再葬」されたもので、土坑は「再葬墓」だとの見解を示す。
 再葬とは、死者を一度は土坑に埋葬し、数年後に白骨化してから掘り出し、土坑内で焼いて埋葬し直す行為。出土した焼骨は全身としては残存量が少なく、一部を土器に入れ、別の神聖な場所に埋め直したと推定できるという。
 楢崎所長は「縄文の人々は、骨を焼くことで立ち上る煙を見て、死者が天へ昇る姿を想像し、再生を願ったのではないか」と太古に思いをはせている。

—転載終わり—

 発掘調査を実施した群馬県埋蔵文化財調査事業団の公式サイトに林中原Ⅱ遺跡についての解説が掲載されています。
 http://www.gunmaibun.org/remain/iseki/seiri/2016/20160125.html

 林中原Ⅱ(はやしなかはらに)遺跡【八ッ場ダム関連】

縄文時代の墓に埋置された土器
 林中原Ⅱ遺跡は、吾妻郡長野原町林に所在する遺跡です。発掘調査は平成20年度と21年度に行われました。縄文時代中期~後期(約5,000年~4,000年前)の集落遺跡で住居や土坑、列石遺構などが多数発見されました。整理作業は平成25年度に着手され、現在も継続しています。
 縄文時代の土坑の中には、焼けた人骨が出土した土坑がありました。通常、内陸部の洪積台地では土中に埋められた人の骨は、腐ってしまい残りにくいものですが、林中原Ⅱ遺跡では幾つかの中期の土坑に焼骨が残っていました。極めて珍しい現象です。生骨ではなく焼けていたため、腐らずに残っていたのでしょうか。土坑の性格としては、再葬墓という説もありますが、検討が必要です。
 焼骨を出土した土坑は、縄文時代中期後半に時期が求められます。そのうちの2基の土坑からは大型深鉢1個体がそれぞれ出土しています。2個体とも内面に煤が付着したり、表面が風化したりしており、日常品を転用していたようです(写真1)。
 この他に、縄文時代後期の楕円状土坑の一部では、土器が逆位に埋置された状態で発見されています。遺体の顔の部分に土器を被せたもので、「土器被り葬」と呼ばれる、縄文時代各時期に見られる葬法です。後期のこのような土坑には、焼骨は出土していませんが、逆位土器の下から歯が出土した例が一例ありました。写真2は土坑から逆位に出土した後期土器3個体です。これらも、日常品の転用で、特別あつらえの土器ではありません。
 このように、林中原Ⅱ遺跡の墓と思われる土坑には土器を使用した例が幾つかあります。なぜ、土器が墓に埋置されたのか、反対に土器を埋置されない墓との差は何が原因なのか、解明しなければならない課題はたくさんあります。

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 八ッ場ダム予定地域の遺跡については、こちらに大まかな解説を載せています。
 http://yamba-net.org/problem/wazawai/legacy/