全国一高額なダムにつけられた「八ッ場」という名は、川原畑地区の東のはずれにある字(あざ)の名です。
河川予定地の看板 吾妻川沿いの「八ッ場」から上流の約10キロ区間は、八ッ場ダムができると標高586メートル以下の土地が沈みます。川原畑地区は対岸の川原湯地区とともにほぼ全戸が水没するため、「全水没予定地」とされてきました。

 川原畑地区の水没予定地の字名は、八ッ場のほかに、二社平(じしゃだいら)、東宮(ひがしみや)、石畑(いしはた)、西宮(にしみや)、上ノ平(うえのたいら)、三平(さんだいら)、戸倉沢(とくらざわ)、久森(くもり)と宇知山(うじやま)です。
(写真右=1986年3月、水没予定地は”河川予定地”に指定され、川原畑地区にも看板が立てられた。)

事業認定の告示
DSCF9866 国交省は昨年4月、土地収用法に基づいて、八ッ場ダムの事業認定を告示しました。
 その結果、強制収用手続きが可能となり、国交省はダムサイト両岸の川原湯と川原畑の水没予定地に残る住民に移転を迫ってきました。両地区では今年3月、最後の家屋が解体されました。
(写真右=川原畑地区の水没予定地には昨年、「事業認定の告示」を通知する看板が立てられた。)

 けれども、川原畑の水没予定地では、今も命の営みが続いています。ここはニホンカモシカ、キジ、ヤマドリ・・・様々な動物の住処でもあります。
   

集落の縮小
 1979年の群馬県の調査によれば、川原畑地区の世帯数は79世帯、人口は307人でした(「生活再建案=八ッ場ダムに係る生活再建対策・関係地域振興対策」、群馬県、1980年)。
川原畑住民とどんどん焼き もとの集落の裏手の山を削って造成した代替地は、川原畑の集落がそのまま「ずり上がる」予定でしたが、造成に時間がかかり、分譲価格が周辺地価よりはるかに高額に設定されたことから、住民の多くは地区外へ引っ越しました。代替地へこれまでに移住した世帯数は15世帯にすぎず、人口は60人を割っています。川原畑の人口はダム事業受け入れ前の五分の一以下に縮小しました。
(写真右=川原畑のドンドン焼き。住民が多かった頃は集落の三か所に分かれてやった。2015年1月14日)

 下の図は、群馬県の「生活再建案」(1980年)に掲載された川原畑地区の地図です。
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 地図の下の方に描かれている吾妻川を挟んで、北(上)側が川原畑地区、南(下)側が川原湯地区です。ダム事業による住民の移転予定地は緑と黄緑色で塗られています。付替え国道(茶色いライン)が代替地計画の重要な軸になっていたことがわかります。
DSCF0182 集落の右側は吾妻渓谷に繋がる急峻な地形です。宅地は平坦地がある左側(吾妻川の上流側)に集中していました。標高586メートルの水没線より低い土地がもともとの住民の生活圏で、吾妻線の線路があるあたりを下村、坂道をのぼっていったところを上村と呼び分けていました。いずれにしても、集落内のどこに行くにも、少し歩けば辿り着けるほど小さな集落です。
 当時は宅地の周辺に、わずかに桑畑が残っていました。かつて養蚕が盛んだったこの地域では、屋根裏を蚕室に使っていた屋敷が数多くありました。
(写真右=江戸後期に開発され、川原畑でも使われていた上州座繰り器。)
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 右の写真は、15年ほど前、川原畑地区の住民が観音堂の前で撮ったものだということです。
 地域の人々は、草刈りや用水路の清掃などの共同作業を”おてんま”と呼びます。この写真も、”おてんま”で住民が集まった時に撮られたようです。

陽の当たる川原畑 
川原畑に走ってくる吾妻線 (2)コピー 吾妻谷の北に広がる川原畑の集落は、陽がよく当たり、風も少なく、長野原町で最も温暖な土地です。川原畑からは、対岸の川原湯地区の金鶏山の雄大な山容がよく見えます。
(写真右=2014年9月には、まだJR吾妻線が走っていた川原畑地区の水没予定地。対岸に金鶏山の山並み。)

 静かで小さな川原畑の集落ですが、旧信濃街道支道、いわゆる「真田道」が集落内を通っており、人馬の往来があるところでした。
久森隧道 (3) 明治時代には、川原畑出身で県議会の副議長をつとめた野口茂四郎氏(1856~1913)が吾妻川沿いの国道を開削し、地域の交通事情は一気に向上しました。さらに昭和20年には吾妻線の川原湯温泉駅が開業し、川原畑の下村は駅まで約1キロと、交通至便の土地になりました。川原畑では長年、旧街道を「旧道」、吾妻川沿いの国道を「新道」と呼んできたそうです。
(写真左=川原畑地区の「新道」にある久森隧道。2014年11月18日以降、ダム本体工事専用道路となり、現在は一般車両通行止め。)

 八ッ場ダム事業は、この穏やかな集落の暮らしをズタズタにしました。
 住民が集合写真を撮った場所にあった観音堂は、すでに解体されて元の場所にはありません。

旧道沿いの歴史遺産
DSC05340 観音堂は集落を見渡せる高台にあり、旧街道に面していました。右手に巨大な岩と「三ッ堂石仏群」と呼ばれる石仏が並び、8月16日の晩にはお盆の送り火行事、「百八灯」が行われました(写真右)。

 江戸時代、天明3(1783)年の浅間山大噴火の際には、吾妻川の上流から流下した泥流が川原畑に甚大な被害をもたらしましたが、この高台は無事で、駆け上った住民は助かったといわれます。当時の災害を伝える『浅間記』(富沢久兵衛)は、川原畑の家屋21軒が流れ、4人亡くなったと記しています。
 農地の4割を泥流に覆われた川原畑地区が復興し、天明三年以前の年貢高を納められるようになったのは、地租改正によって年貢が廃止されるわずか二年前、明治4(1871)年であったということです。(「自然災害と考古学」、群馬県埋蔵文化財調査事業団、上毛新聞社)

川原畑 056フレーム 旧信濃街道、いわゆる真田道を東に進むと吾妻渓谷の道陸峠へ達します。反対に西へ行くと、戸倉沢の手前に諏訪神社があります。沢にかかる橋を渡って700メートル余り上ってゆくと久森(くもり)峠でした。
 険阻な峠道を行く昔の旅人は、二つの峠に挟まれた小さな川原畑の集落で一息ついたのでしょう。街道の往来があった頃の川原畑の西宮には、茶店、今でいうドライブインがあったそうです。しかし現在は、吾妻渓谷では八ッ場ダムの本体工事が進められており、久森峠への道も付替え国道で分断され、昔の面影を想像するのは難しくなっています。
 八ッ場ダム事業では天明泥流に覆われた水没予定地の全域が発掘調査の対象になっており、川原畑地区では東宮遺跡の発掘調査が2007年から行われています。泥流と湧水によって封印されていた当時の川原畑の人々の生活は、これまでの山村のイメージを一変させるほど、豊かなものであったということです。

IMG_0114 川原畑の住民の信仰の場である諏訪神社の新しい社殿が代替地に完成したのは、代替地の分譲が始まった2006年でした。ご神体がヘリコプターで吊り上げられて代替地へ移されたと話題になりました。
(写真右=秋祭りの飾りつけをした、水没予定地の川原畑諏訪神社。2005年9月27日)

 1月14日のドンドン焼きが終わると、住民は神社に集まって、「鳥追い」の行列に出かけました。
 群馬県の吾妻地域は小正月の行事が盛んなところで、田畑の作物を荒らす鳥や獣を追い払い、五穀豊穣と集落の安全を願う「鳥追い」もその一つです。川原畑の鳥追いは、近年はだいぶ省略されるようになったようですが、昔は鳥追い唄を唄いながら、凍る夜道を村はずれの八ッ場まで往復し、太鼓の音が谷間に響いたということです。

DSCN0148 「鳥追イダ 鳥追イダ アーリャダーガ鳥追イダ ギンズウドンノ鳥追イダ サーラバヨッテ追イマワセ 朝ドリヨウドリ 頭切ッテ尻切ッテ 塩樽ヘサラゲェコンデ 佐渡ガ島へホーイ」
(「長野原町の民俗」より、川原畑の鳥追い唄)

 鬱蒼とした鎮守の森に佇んでいた諏訪神社の社殿は、昭和3(1928)年の建築でした。長野原町誌(1976年)によれば、明治元年の火災で神社が焼失した後、仮宮を建てたものの、小村であったため再建までに60余年を費やしたそうですが、その貴重な社殿も2006年にあっけなく解体されました。

諏訪神社の宵祭り 2005年9月26日
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百八灯の送り火 正面に観音堂、右手に石仏群、左手に共同墓地。 2005年8月16日
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真田道にあった石仏。2005年12月14日
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真田道の発掘調査が始まる。遠方に、観音堂の脇にあった大岩。2017年3月8日
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長野原町で一番春が早くやってくる川原畑。水仙がいたる所に。諏訪神社跡周辺。2017年4月8日
スイセン (2)

川原畑の中ほどを流れていた穴山沢は、大規模盛り土で代替地の一部になり、盛り土の上に町営住宅、クラインガルテン(菜園付き別荘)などができた。湛水に備え、右手の尾根を崩している。2017年1月31日
二社平地形改変

補償交渉が始まる以前の川原畑の集落 2001年1月28日
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