6月17日、八ッ場ダム水没予定地の遺跡を本郷たかあき群馬県議らが視察しました。見学に参加させていただきましたので、発掘調査の現状をお伝えします。
 見学した遺跡は、川原湯地区の水没予定地で発掘調査を行っている二つの遺跡です。八ッ場ダム事業用地の発掘調査は、いずれも八ッ場ダム事業によって県埋蔵文化財調査事業団(以下、県埋文事業団と略)が行っています。
 最初に訪れた下湯原(しもゆばら)遺跡は旧・川原湯温泉駅周辺に広がっており、頭上に架かる八ッ場大橋から遺跡全体を見下ろすことができます。遺跡の名前は、この土地の小字(こあざ)名に由来しています。
 下湯原遺跡を上から見る.jpgs

 下湯原遺跡は八ッ場ダムの本体工事が始まった名勝・吾妻渓谷のすぐ上流に位置しており、本体工事関連の道路や施設が建設されることから、それらの整備を前に集中的に発掘調査が進められているようです。
 かつての川原湯温泉駅周辺には、多くの家屋が建ち並んでおり、当初の発掘調査のリストには下湯原遺跡は含まれていませんでした。現在、下湯原には家屋は残っておらず、昨年11月より立ち入り禁止となっています。今回は特別の許可を得て見学することができました。

 本年4月より発掘調査が開始され、4月調査と5月調査の概要報告が県埋文事業団のホームページに掲載されています。
 ◆下湯原遺跡 平成27年4月調査 
  http://www.gunmaibun.org/remain/iseki/hakkutu/2015/20150508-1.html

 ◆下湯原遺跡 平成27年5月調査 
  http://www.gunmaibun.org/remain/iseki/hakkutu/2015/20150603-2.html

 温泉街アーケードと下湯原遺跡.jpgs 下湯原遺跡は吾妻川の河床から約30メートルの高さにある右岸の川原湯地区に位置します。遺跡のある場所には昨年9月まで、川原湯温泉駅が営業し、吾妻線が走っていました。

 発掘調査の一面目は、水没予定地の他の遺跡と同様、1783(天明3)年8月5日(新暦)の浅間山大噴火によって吾妻川を流れ下った天明泥流に覆われていました。約230年前にこの地を覆い尽くした泥流は1メートル前後の厚みがありましたが、これを取り除き、7月に降った軽石(A軽石)が畝と畝との間に白い筋となって幾何学模様のようにきれいに残る畑跡が第一面です。軽石が降った当時、栽培していた作物は、イモ類、麻、ヒエ、アワ、陸稲などが考えられ、現在、どの畑でどの作物が栽培されていたかを分析しているとのことです。
 川原湯温泉の入り口アーケードがあった場所のすぐ脇には、大きな肥え溜の跡が二つ出土しました。畑の奥の山側では、この地方の豪族の墓の調査が進められています。

畑跡と墓地跡.jpgs

 発掘調査によって、江戸・天明期、八ッ場ダム水没予定地では、特産の商品作物が栽培され、後に豪農につながる地主が多くの使用人を使って農業を営んでいたことが明らかになりつつあります。田沼意次時代の末期に当たる天明3年は、貨幣経済が発達し、地域特産の作物(この地域では麻など)が盛んに栽培されるようになっていました。浅間山大噴火という自然災害を経て、全国的な飢饉による農村の疲弊、百姓一揆の増加による政情不安は田沼時代を終焉させ、幕府が寛政の改革へと方針転換を図る要因となりました。

 一面の調査が終わった場所では、さらに深く試掘を行い、天明の畑跡の下に遺構がある場合は、さらに二面、三面と掘り進めていきます。国道と鉄道が川原湯地区から川原畑地区へ渡る新千歳橋の手前では、近世より以前、この土地の豪族の住まいであったと考えられる館跡の調査が行われています。この館があった時代はまだ特定されていませんが、中世~近世にかけて使用された土器が出土したことから、中世以降の遺跡と考えられます。屋敷の周りは堀をめぐらしてあったようで、敷地内に二間二間の掘立柱跡が出土しています。
 出土した土器は月夜野型の内耳甕(ないじがめ)と呼ばれるもので、囲炉裏で甕を使って煮炊きをする際、甕を吊るす紐が燃えないよう、甕の中に取っ手が付けられた甕であるということです。この場所では、縄文時代の遺物も出土していますが、遺構は確認されていません。

鉄橋脇.jpgs

建物跡とカマド.jpgs
 豪族の館跡と川原湯温泉駅があった場所との間の土地では、平安時代(9世紀後半から10世紀頃)の竪穴住居四棟の跡が出ています。

下湯原遺跡と跨線橋.jpgs
 下湯原遺跡の広がる場所には、現在も本体工事の運搬用に廃線となった旧国道、線路や旧・川原湯温泉駅の跨線橋が残されており、発掘調査は線路と道路以外の部分で行われています。線路や道路下にも遺跡は広がっていますので、工事終了後、これらの部分も発掘調査が行われる予定です。