6月17日に行われた群馬県議らによる八ッ場ダム予定地の遺跡視察の二か所目、石川原遺跡(川原湯地区上湯原)の発掘調査についてお伝えします。
 一か所目の下湯原遺跡については、こちらのページに掲載→ http://yamba-net.org/?p=11504

 石川原遺跡は、新しい川原湯温泉駅の谷側の水没予定地にあります。案内表示がないのでわかりにくいのですが、下湯原遺跡とは異なり、石川原遺跡のある上湯原はまだ立ち入り禁止区域ではありませんので、駅の脇の跨線橋を超えて線路の脇の道を辿り、坂道を下りて現場の近くまで行くことができます。
 (写真下=左手に天狗山が聳える。遺跡のある川原湯地区と天狗山との間の谷間を吾妻川が流れている。2014年12月22日撮影)
石川原遺跡の発掘shuku 

 石川原遺跡は吾妻川右岸の下位段丘面に位置しています。石川原遺跡の下流には、左岸側に川原畑地区の東宮遺跡と西宮遺跡があります。石川原遺跡も東宮・西宮遺跡も、1783年の浅間山大噴火により発生した天明泥流に覆われた場所です。標高はいずれも530~540メートルですが、泥流の到達した状況は異なりました。下流側にある東宮遺跡は、石川原遺跡と比べると泥流の勢いが弱かったようです。
 下の写真の赤色矢印の下に石川原遺跡があり、、黄色矢印の下のあたり(山の反対側)に東宮遺跡があります。石川原遺跡の地点から東宮遺跡の地点に至るまでに、吾妻川は大きく屈曲しています。東宮遺跡よりさらに下流の右岸側に下湯原遺跡があります。
キャプチャ

 発掘調査を行っている県埋蔵文化財調査事業団によれば、石川原遺跡を覆った泥流には2メートルを超す巨礫をはじめ、大小の礫が入り混じり、畑跡には礫が挟まり込んだ流線形の凹面が多く見られ、天明泥流によるこの地のダメージの大きさに驚かされたといいます。これは、吾妻川がこの地点で対岸の天狗山の山塊にあたり、流路を変える場所に張り出した舌状台地という地形が原因と考えられます。泥流の礫だけでなく、石川原遺跡の基盤にも多量の礫があり、それが遺跡の名前の由来でもあります。

 下の写真は、現在、発掘調査が進められている石川原遺跡の今年度調査地の東端にある寺院の跡です。
不動院跡の瓢箪池跡.jpgs

密教法具 写真奥のブルーシートがかけてある場所に本堂、その右手に庫裏、手前の四角い石が並んでいる場所が山門があった場所です。作業員が集まっているところには、瓢箪型の池がありました。池には上流の不動沢から水路で沢水が引き込まれていたことや、山門の外には道があったことも発掘調査で明らかになっています。(右写真=庫裏のあった場所から出土した銅製品の密教法具の写真。「遺跡は今」第24号、群馬県埋蔵文化財調査事業団)

キャプチャ 約230年前の浅間山大噴火による天明泥流は、実際にこの災厄を見聞きした人々によって多くの記録が残されています。その一つ、「天明3年7月 砂降候以後之記録」(浅間山天明噴火史料集成3)には、この土地の不動院の住職が天明泥流を逃れるため、命からがら山を駆け上って助かったことが書き残されています。石川原遺跡の寺院跡は、古文書に書かれた不動院が天明泥流に埋没した場所である可能性が高まっています。
 庫裏の跡からは密教法具一式が出土しています。天明年間以降に遺跡より標高の高い土地に再興された不動院は天台宗であったことなどからも、発掘調査によって出土した遺構は不動院である可能性が高いと考えられています。(右写真=密教法具の一つ、三鈷杵が出土した時の写真)

 寺院跡の西側には、一面に天明の畑跡がありましたが、その下の二面から四面までの遺構が出土しており、丁寧に調査が進められています。