川原湯神社の解体
川原湯神社 (2) 八ッ場ダムの本体工事現場に隣接する川原湯地区では、川原湯神社を解体する準備が進められています。3月24日には、敷石の移転作業が行われ、境内に並んでいた石仏もなくなっていました。

 川原湯地区の住民を見守ってきた神社は、水没予定地の川原湯温泉街の坂を上りきったところにあります。ここは八ッ場ダムが満水になった時の標高583メートルよりは高い位置にあるのですが、町道建設予定地になっているため、神社を遷さなければならなくなりました。

 八ッ場ダム事業では、川原湯温泉のJR新駅の山側と谷側に町道をつくっていますが、二つの町道が神社のあたりで合流し、温泉街のあった山の中腹(ダム完成後はダム湖畔)を通って打越代替地の王湯会館の前へ繋がる予定です。

新神社
新しい神社 新しい神社の建設地は、「川原湯温泉駅」の裏手の県道の脇です。(写真右=新神社と神楽殿。2017年3月30日)
 ダム事業による移転補償金が地元へ支払われたものの、代替地の土地購入と神社の建築費用は補償金よりはるかに高額であったため、多額の寄付を募ることになったといいます。当初は社殿を移築する予定だったそうですが、移築は新築より費用が嵩むため、あきらめざるをえなかったそうです。

 神社建設地の背後の金鶏山(金花山ともいう)は、雨が降ると崩れやすく、延々と防災工事が続いています。過去、何度も地形が改変されるほどの土石流が襲ったことを語り伝える地元民らは、果たしてここが神社にふさわしい場所だったのかと、不安を抱いています。

新神社 新しい境内は、これまでよりだいぶ狭くなってしまいました。
 砂防ダムと擁壁に取り囲まれた新神社の境内に佇むと圧迫感があり、八ッ場ダム反対期成同盟の委員長であった故人の、「私たちには他に行き場がないのです」と仰った、悲痛な声が聞こえてくるようです。
(写真右=正面の拝殿の右手に神楽殿、手前に社務所。)

 新しい神社は、今年1月には完成の予定でしたが、工事が遅れています。当初は3月に遷座式を行うことになっていましたが、新神社の本殿が未完成のため、3月13日に仮の遷座式が行われました。防災工事はいつになったら終わるのかわかりませんが、4月8日の春祭りは新神社で行われるそうです。
 地元紙が夜間に行われた仮遷座式の様子を伝えています。 

◆2017年3月15日 上毛新聞
ー川原湯神社 仮遷座式 ご神体 代替地へー

仮遷座式で使われた竹 長野原町の八ッ場ダム建設に伴う生活再建事業で、代替地への新築移転工事が進められている川原湯神社の仮遷座式が13日夜、川原湯地区内で行われた。
 地元や国土交通省ダム工事事務所関係者ら約60人が参加した。2001年に火災で焼失し、1年後の02年に完成した現在の神社で神事を行った後、ちょうちんとたいまつを先頭に列を組み、周囲から見えないようにご神体を布で隠し、建設が進む新たな神社の社務所まで運んだ。
 列は周囲の明かりを消した暗闇の中で、一歩一歩ゆっくりと600メートルの道のりを午後8時から1時間ほどかけて歩いた。新たな川原湯神社は今月中に完成し、来月8日に開催される春の例大祭で本遷座式が行われる。
 川原湯区長で同神社総代の高山欣也さん(73)は「火災では寄付を募って再建したほど住民の思い入れがある神社。八ッ場ダムのためにやむを得ず代替地に移転せざるをえないということを忘れないでほしい」と話した。
 同神社の海野信義宮司(75)は「神社は地域の人のよりどころ。新しい神社で開催される来月の例大祭は、地区外に移転した人も見に来てくれるのではないか」と期待した。

—転載終わり— (右上写真はあしたの会3/24撮影 仮遷座式でたいまつに使った竹。)

神域と温泉
首が切られた石仏 長野原町誌(1986年発行)には、川原湯神社について次のように書かれています。

・鎮座地=大字川原湯 字西宮 温泉街の西南方山麓の高台にあって、鬱蒼とした樹林に囲まれ、神域に適したところである。
・川原湯神社はもともと薬師社といわれていたのを、明治五年湯沢神社と改め…(中略)…大正四年一月二十八日許可され、本社境内神社 三峯神社、八坂神社、大山祇神社、本村村社 諏訪神社、同境内神社七社及び本村無格社 住吉神社を合併し、村社川原湯神社と改称するに至った。

—転載終わり—(写真右上=境内に並ぶ石仏には、廃仏毀釈の影響か、頭部が欠けていたり、胴体が切断されているものが多い。2017年2月23日撮影)

 長野原町誌や「長野原町の民俗~八ッ場ダム水没地域民俗文化財調査報告書」(長野原町 1987年)は、江戸時代まで温泉の恵みをもたらす「薬師さん」を中心とした神仏混交の祈りの場が、明治維新以降の廃仏毀釈の時代を乗り切るために川原湯神社へ改称した経緯を綴っています。

川原湯神社の鳥居と湯けむり 川原湯温泉のもともとの源泉は、川原湯神社の鳥居のすぐ下の、標高570メートル台の崖から湧き出ています。江戸時代まで薬師社であった川原湯神社は、温泉と切っても切れない関係にあります。神域はまさに神社の役割にふさわしい場所にあったわけです。
(2017年2月23日撮影。川原湯神社の下の鳥居のあたりには、湯煙が立ち上っていた。鳥居の奥にあるタンクには、新源泉が貯められている。)

 川原湯地区の住民は、八ッ場ダム計画が発表された当初、温泉の泉源がダムに沈み、生活の糧が奪われてしまうことに激しく反発しました。このため、群馬県は住民の生活再建を目的として、川原湯地区の各所でボーリング調査を実施しましたが、結局、使える温泉は神社の周辺でしかみつかりませんでした。現在、川原湯温泉の移転地である打越代替地に送湯されているのは、もとの泉源より標高が高く、ダムに沈まない場所から湧き出ている新源泉ですが、この新源泉の泉源も川原湯神社のそばにあります。

川原湯神社内の道祖神(元文4) 長野原町誌には、江戸時代の宝暦四(1754)年、文化二(1805)年には、社殿が焼失したという記述があります。
 天明三(1783)年の浅間山の大噴火によって吾妻川を流れ下った泥流(天明の浅間押し)は、川原湯地区に甚大な被害をもたらしましたが、泥流は神社のある高台には到達しませんでした。
 川原湯地区では、吾妻川沿いの平地が泥流に襲われたため、確認された天明3年以前の石造物は、調査総数117体のうち、14体のみです。(「長野原町の民俗」503ページ)
 参道の脇に佇んでいた右写真の道祖神は、天明の浅間押しより40年以上前の元文4(1739)年の作。

2001年の火災 
 江戸時代に何度も火事で焼失したとされる川原湯神社ですが、2001年4月9日の火事は、八ッ場ダムの補償基準の調印を控えた時期であっただけに、川原湯地区にとっては大きな打撃であったといいます。
 4月9日の火事を翌日の上毛新聞が伝えていました。

◆2001年4月10日 上毛新聞
ー川原湯神社が全焼 長野原 山林2ヘクタールに火勢拡大ー

キャプチャ川原湯神社の火事 九日午後二時四十分ごろ、長野原町川原湯の川原湯神社(海野信義宮司)から出火、木造平屋建てかやぶき造りの社殿百十平方メートルを全焼した。火は神社南東の山林に燃え移り、下草など二ヘクタールを焼いた。けが人はいなかった。神社は二百年近い歴史と由緒があり、住民は、「昨年屋根のふき替えを行ったばかりで、貴重な文化財がなくなってしまった」と落胆している。
 長野原署の調べによると、出火当時、同神社は通常通り無人だった。九日は前日に行われた神社の春祭りの後片付けのため、昼ごろにかけて、境内で不要になったものを燃やしていたという。同署で出火原因を調べている。
 同神社は江戸時代後期の一八一四年に建てられたもので、奇祭「湯かけ祭り」の舞台となる川原湯温泉街を見下ろす高台にある。
 長野原町教委によると、神社は町の文化財には指定されていないが、一九三三(昭和八)年に、歌人の与謝野晶子、鉄幹夫妻が立ち寄った。この際、鉄幹は「川原湯の 社のすだれの 古りたれど 入りて拝めば 肩ふれて鳴る」と短歌を残しているという。

 また、老朽化のため、住民から約一千万円寄付を集め、昨年、屋根のふき替えをしたばかりだった。
 この火災で、吾妻広域消防本部のほか、二百人あまりの町消防団員全員が招集され、県防災ヘリコプター「はるな」も出動、消火にあたった。町も一時、田村守町長を本部長とする現地対策本部を設置、午後四時四十分に鎮火した。

—転載終わり—

2006年冬 040 八ッ場ダム事業では、国が川原湯をはじめとする水没地区の住民の土地を取得するために、住民代表と交渉して地目や土地の利便性などを考慮した補償基準を定め、2001年6月14日に国交省と地元住民が調印しました。
 水没住民は1985年には実質的に八ッ場ダム計画を受け入れましたが、2000年度に完成する筈だった八ッ場ダムは関連事業が肥大化して、2001年当時は先の見通しが立たない状態でした。
(写真右=2006年4月8日撮影。春祭りの太々神楽。木造の鳥居と神楽殿は、2001年の火事で焼けずに残った。)

 当時の報道によれば、国交省は補償基準が調印された6月14日、あらためて八ッ場ダムの本体工事を2006年度に着工すると発表しましたが、実際の本体着工は9年後の2015年でした。
 長い歳月の間に、国の約束が当てにならないことを思い知らされた住民の多くは、国交省が造成中だった代替地の分譲地価が周辺地価よりはるかに高額に設定されたこともあって、現地再建をあきらめ、地区外へ流出していきました。

 川原湯の共同体はダム闘争で疲れ果て、その後もダム事業に翻弄され続け、人と人との繋がりが崩れつつありました。そうした時期の災厄でしたが、火災保険や当時の住民たちの努力によってもとの神域に再建されました。

消えた公園計画
キャプチャ金花山公園 当時ダム事業で予定されていた神社の移転地は、背後の山の上に造られることになっていた金花山公園でした。しかし山を登る道路建設と一体となった公園計画は、その後立ち消えになりました。
(右上図=「川原湯地区のまちづくり計画(案)」2005年 国交省と群馬県がコンサルタントに描かせたイメージ図の一部。川原湯神社は尾根の上の金花山公園に再建することになっていた。神社がある場所に描かれているダム湖を周遊する道路計画は、その後も残り、現在工事中。)

 川原湯には神社に毎朝参拝する方や、子どもの病気を治してほしいとお百度参りをする方もいました。出征式が行われたのも、この神社だったそうです。

 川原湯神社から出征し、シベリア抑留を耐えて帰還したおじいさんは、90歳になるまで朝の参拝を欠かさず、日中は梅林やミョウガ畑の手入れを黙々とやっていました。
 幾たびもの災厄に見舞われながら、働き者の川原湯の名もなき人々が地道に紡いできた日々の暮らしがこれ以上脅かされることのないよう、ダム事業を監視していきたいと思います。

2017年1月31日撮影 2001年の消失前の写真が神楽殿の壁に掛かっていました。
茅葺の拝殿、精巧な木彫が写っています。与謝野夫妻が川原湯神社を訪ねた際に詠んだという「川原湯の社のすだれ 古りたれど・・・」は、現在は鉄幹の作とされていますが、火事の前は拝殿前の看板に晶子作と書かれていたことが写真からわかります。「歌の柔らかな調べからして、鉄幹作とは思えない」と、地元のおばあさん。
かつての神社の写真

2017年2月23日撮影 参道脇の石段の上に並んでいた石仏。
川原湯神社参道脇の石仏

2017年3月28日撮影
川原湯神社 (2)

2017年3月30日撮影 本殿と拝殿の千木(ちぎ)が空に突き出ていること、樽木が奇数であることから、川原湯神社は男神であるということです。
拝殿と本殿

2006年4月8日 川原湯に春を告げる太々神楽。住民の熱演が見事。
2006年冬 052

2017年3月30日撮影 参道脇の竹藪から、ニホンカモシカの仔がじっとこちらを見ていました。このカモシカの縄張りが間もなく道路建設地となります。
カモシカ

竹藪のカモシカ