東日本大震災の被災者とダムの水没住民は、いずれも自分ではどうしようもない大きな力によって故郷から引き離される喪失感を抱えて生きていかなければなりません。
 わが国で最も大きな徳山ダム(2008年完成)に沈んだ岐阜県の旧・徳山村に生まれ育った故・増山たづ子さんは、ふるさとが「すべて写真になる日まで」ピッカリコニカで写真を撮り続けました。増山さんと被災者の喪失感は重なることを伝える連載記事です。

◆2017年3月20日 朝日新聞
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12850364.html
ー(てんでんこ)失われた風景:6 小さな抵抗ー

 ■被災地とダムに沈んだ村。共通する、住み慣れた土地から引き離された喪失感。

 東日本大震災から5年後の昨年5~6月、仙台市内の小さなギャラリーで、「増山(ますやま)たづ子と東北の記録者たち」展が開かれた。

 津波が来る前の日常の風景を切り取った写真や絵の隣に、ふるさとの岐阜県旧徳山村(現揖斐川町)がダムに沈むまぎわまでの約30年間を撮り続けた増山(2006年に88歳で死去)の作品が並んだ。住み慣れた土地から引き離されたという共通の喪失感が、被災地と村の距離をぐっと縮める。

 オープニングの日、増山の写真を東北で展示するのに尽力したIZU PHOTO MUSEUM(イズフォトミュージアム、静岡県長泉町)研究員の小原真史(こはらまさし)(38)とともに、岐阜県神戸町の大学非常勤講師、野部博子(のべひろこ)(71)の姿もあった。野部は増山に30年近く寄り添い、写真などの遺品を引き継いだ。

 増山はダム促進派、慎重派のどちらにも属さなかった。「国がやると決めたことは必ずやる。抵抗しても大水にアリが逆らうようなもの、というのが増山の口癖だった」。野部はトークイベントでそう語った。だが、戦争で夫と弟と亡くし、そのうえ「ふるさとまでも」との嘆きが、村の全てを写真に残したいという思いに増山を駆り立てた。

 村を離れる間際に家を壊す時は「ご先祖に申し訳なくて見せられない」と、さらしを巻いて目隠しをした墓石にレンズを向けた。転居後に見に行った村で雪に埋もれながら咲く一輪のヒマワリの花を見つけると、撮った写真の説明に「きっと来てくれると思って、僕頑張ったよ」と書いた。ガハハと豪快に笑ってユーモアを忘れず、写真に映る人も笑顔。悲しんでいるシーンは撮らなかった。

 小原にとって東北で問いかけたかったことの一つが、「大きな流れ」に対するそんな増山の抗(あらが)い方だった。今年2月には同じ企画展を福島市でも開いた。小原には、都市部の利水のために犠牲になった村と、首都圏の電気を供給したあげく事故でふるさとを奪われた原発被災地が重なって見える。

 もう一つ、行ったことはないが、気になっている場所がある。かさ上げ工事で元の風景が一変した岩手県陸前高田市だ。(森治文)

 (No.238)

 ◆てんでんこ 想定にとらわれず、最善を尽くし、率先避難者たれ。本来のばらばらに逃げるという意味が発展。

◆2017年3月17日 朝日新聞
 http://digital.asahi.com/articles/DA3S12845533.html
ー(てんでんこ)失われた風景:5 ダムの底ー

■「夢の復興計画」を語るスーツの男たち。豪華弁当に「おおー」とどよめいた。

 震災から1カ月後の4月。静岡県長泉町のIZU PHOTO MUSEUM(イズフォトミュージアム)の研究員、小原真史(こはらまさし)(38)は、宮城県名取市の北釜地区で被災した友人の写真家、志賀理江子(しがりえこ)(36)からメールを受け取った。

 「あの日一瞬だけ、時間、生、死、感情、物の価値などが崩壊して、そこにあったすべてが見渡す限り真っ平らになった」

 津波直後の心情から始まった長文は、「復興」の名の下で起きた現実に戸惑っていた。

 高級車で乗りつけたスーツ姿の男たちが「夢のような復興計画」を語る。「もっと豊かになる」「助けたい」。配られた豪華なお弁当に、みんなが「おおー」とどよめいた。仙台空港が目の前にあり、カジノ開発など威勢のいいうわさも飛び交った。すべて泡沫(うたかた)の夢と消えた。

 読み終えた小原の脳裏には、かつてダムの底に沈んだ岐阜県の旧徳山村(現揖斐川町)のことが浮かんだ。1957年に計画が持ち上がり、2008年に完成した徳山ダムの主たる目的は川下の中京地区の都市用水確保だった。しかし今、6億6千万トンという日本一の総貯水量をもてあましている。

 補償金と引き換えにふるさとを離れるよう迫られた村は半世紀もの間、ほんろうされ続けた。雪深い過疎の村を出られると喜ぶ者もいた。今さら都会暮らしなどできるかと拒む者もいた。お互いに助け合っていくべき村社会の人間関係に深いひびが入った。

 70年代に入って、計画が本決まりとなった時だった。「ふるさとを忘れてほしくない」と、村の風景や人物の写真を撮り始めたのが民宿を営む村人の一人、増山(ますやま)たづ子(06年死去、享年88)である。

 素人でも手軽に扱えるカメラをぶら下げ、87年に廃村となり、466戸約1500人が土地を離れたあとも、工事中の現場に通った。10万枚に及ぶ記録写真は注目を集めた。

 小原は、たづ子の作品を集めた展覧会「すべて写真になる日まで」を13年秋から約10カ月間、自らが勤める美術館で開く。そして「東北に持っていけないだろうか」と思った。ふるさとを失う意味を、津波や原発事故で元の場所に住めなくなった人たちだからこそ一緒に考えて欲しいと考えたのだ。(森治文)

 (No.237)