さる7月25~26日、東京都水道が管理する多摩川源流の水源林の見学会を行いました。

 多摩川の源流.jpg縮この企画は、2月に開いた「やんばカフェー八ッ場ダムと東京の水」でお世話になった東京都水道労働組合の方からご提案いただきました。

 八ッ場ダム計画の歴史は東京都水道と密接なつながりがあります。
 1964年の東京オリンピック当時、東京は渇水に見舞われ、利根川水系ダムの建設は首都・東京のインフラ整備にとって不可欠と言われました。八ッ場ダムは地元住民の強力な反対運動にもかかわらず、1965年に改めて強力に推進されることになりました。
 
小河内ダム.jpg縮 一方、東京都は明治時代から多摩川に水源を求め、広大な水道水源林を管理してきました。(写真右上=水源林を流れる多摩川源流)
 東京都の水道水は現在、約8割を利根川と荒川に依存し、自己水源である多摩川の割合は約2割にすぎません。現在も東京都は人口増加が続いていますが、社会状況の変化、漏水防止対策、節水機器の普及などにより、今では水余り状況にあります。夏になると利根川上流のダムの水位が下がっている映像がよくテレビで映し出されますが、渇水年でも多摩川水系の”都民の水ガメ”小河内ダム(写真右)は満々と水をたたえています。
 東京都の水道事業を考える上で、多摩川を知ることはとても重要です。

 今回の見学会も東水労の方にご案内いただき、大変お世話になりました。
 平野は猛暑の最中ですが、多摩川の源流である水源林の中の沢沿いの道は涼しい風が心地よく、快適でした。

 午前8時半、JR青梅駅前に集合。群馬からは車で高崎インターから青梅インターまで約1時間半と、意外に近いです。
 駅前で電車に乗ってきた参加者と合流し、四台の車で出発。青梅街道を山梨方面にひた走り、多摩川を源流に遡りました。東京都から山梨県に入り、登山口の作場平まで約2時間の道のり。

水道水源林の10分の1.jpg縮 東京都水道局は多摩川上流に広がる森林を水道水源林として、100年以上前から管理しています。その面積はおよそ2万2,000ヘクタール、東京都の奥多摩町から山梨県の小菅村、丹波山村、甲州市にまたがり、なんと東京都全面積の約10分の1に相当するほど広大です。
(右の写真に写っている森林は、東京都水道局が所有する水道水源林の10分の1足らず。)

 「水道水源林の広がり」(東京都水道局ホームページより)
水源林

 100年以上前、東京市が森林の保全に取り組むことになったのは、防災と森林の貯水機能を重視したためとされます。

★水道水源林の沿革(東京都水道局ホームページより)
 http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/kouhou/pamph/suigenrin/pdf/h22_08.pdf

 現在では東京都も行政改革の掛け声の下、さまざまな業務を民間委託する流れにあるようですが、20年ほど前から水道水源林を積極的にアピールするようになっています。広大な水源林の管理や調査を50人ほどの職員が行っているそうです。

 ヒノキとカラマツ.jpg縮笠取山の登り口である作場平(さくばだいら、山梨県甲州市塩山、標高1310メートル)で下車、東京都水道局が整備した水源林の中の登山道を進みます。登り口周辺の水源林は大正時代に植林され、ヒノキ、サワラ、カラマツなどの樹種が見られます。
 森林の専門家から見ると、第二次大戦の頃、手入れが行き届かなかったことが品質に影響を及ぼしているそうですが、植林後、放置されっぱなしの森とくらべると、日が差し込む明るい森です。

シカ 沢水を飲みに来る鹿は観光客を喜ばせますが、鹿の食害により立ち枯れた木も少なくなく、増えすぎた鹿は現在、駆除の対象となっています。

多摩川の清流 水道水源林の森林の約7割が天然林、約3割は人工林で、登山道では両方の森を間近に見ることができます。地盤となっている花崗岩は風化すると砂状になるため、源流の小川の河床を砂が覆っていました。
 地表を覆う笹の一種、スズタケは土砂崩れを防ぐのに一役買っていますが、スズタケの多くに花穂が垂れ下がっており、世代交代の時期を迎えています。

分水嶺への道.jpg縮 小高い丘を上がりつめると、「小さな分水嶺」の説明看板がありました。標高1820メートルのこの地点は、多摩川と荒川と笛吹川(富士川の支流)の分水嶺だということです。遠くに富士山の秀麗を眺めることもでき、疲れが吹き飛ぶようでした。

水干.jpg縮 さらに歩を進めると、多摩川の最初の一滴が流れ落ちると言われる「水干(みずひ)」に辿りつきます。したたり落ちた滴は地面に浸透し、水が流れていないように見えることから、「水干」と名付けられたそうです。水の神様への感謝のしるしに、「水干」の上の祠にお酒が供えられました。湧き水のおいしかったこと!

源流の水を飲む.jpg縮 ~水干の説明看板より~
 ここが、沢の行止まりの意味で「水干」と名づけられた多摩川の始まりです。
 すぐ上の稜線付近に降った雨は、いったん土の中にしみこみ、ここから60mほど下で、湧き水として顔を出し、多摩川の最初の流れとなります。
 この流れは、水干沢→一之瀬川→丹波川となり、奥多摩湖に流れ込み、そこからは、多摩川と名を変え、138kmの長い旅を経て、東京湾に流れ込みます。
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 森の作業道.jpg縮 この日は登山口に近い一之瀬集落の民宿「みはらし」に泊まりました。
 翌朝、集落内の崖っぷちの山道を辿り、再び水道水源林へ。大正時代に植林された森に、今年、新たにヒノキの苗木を植えた山の斜面です。
 急坂での植林作業は困難で、搬出用の車道もないため、伐り出した木を売っても採算は合わないそうです。苗木はわずか100円でも、シカの食害を防ぐ網が1メートル3000円もするとか。水源林の中には、人工林を自然林に戻す場所もあり、林業を取り巻く状況を考えながら試行錯誤が続いているようです。

ダム建設当時の砕石場跡地.jpg縮 青梅への帰路、小河内ダムに立ち寄りました。水道水源林からきた水は、ここで一旦貯えられてから下流に流れていきます。上流にあまり人家がない小河内ダムの水は他のダムと比較するときれいに見えますが、それでも藻類の増殖を防ぐための対策を講じているそうです。
 小河内ダムでは水道専用ダムとしてのイメージを守るため、遊覧船もボートも認められていませんが、東京近郊であるせいか26日も展示施設には多くの観光客が訪れていました。社会科見学で小河内ダムを訪ねた経験のある人も多いのではないでしょうか。
(写真右=小河内ダムによってできた奥多摩湖とダム建設当時の砕石場跡)
 
 小河内ダムは1938年に起工式が行われましたが、第二次大戦の戦局が厳しさを増した1943年、事業は一旦休止され、1948年に再開、完成したのは1957年でした。水没945世帯に及んだ水没住民の苦悩は、『日陰の村』(石川達三著、新潮文庫)に詳しく描かれています。
 ちなみに八ッ場ダムの水没世帯は340、関連事業も含めると470の移転世帯があります。小河内ダムの有効貯水容量が1億8540万トンなのに対して、八ッ場ダムの有効貯水容量は9000万トン。小河内ダムは八ッ場ダムよりはるかに大きなダムです。

 小河内ダムの展示施設「奥多摩 水と緑のふれあい館」に展示されている小河内ダム水没住民の写真
ダム建設の経緯を示す写真.jpg縮