当会の代表世話人の一人であった永六輔さんがさる7月7日に亡くなりました。
 永さんと当会との縁は、2006年に東京で開催されたライブ&トーク「加藤登紀子と仲間たちが唄う 八ッ場いのちの輝き」から始まりました。
永さんのサイン このイベントは、あしたの会の前身である「八ッ場ダムを考える会」の有志が実行委員会をつくって企画したもので、永さんは八ッ場ダム問題を考える登紀子さんの仲間として、南こうせつさん、野田知佑さん、池田理代子さんらと舞台に上りました。

 その後、2008年5月1日、したたるような新緑の季節にダム予定地を訪ねた永さんは、加藤登紀子さん、澤地久枝さんと共に吾妻渓谷を散策し、川原湯温泉の旅館で懇談会を開きました。ラジオでよく喋る永さんが、この時は言葉少なく、ダム事業で移転させられた石仏群や、ダム湖をまたぐために建設中だった巨大な湖面橋を呆然と見上げていました。「入れ歯を忘れたから今日は話しにくい」と仰っていましたが、あまり話されなかったのは入れ歯のせいだけではなかったようです。

 翌2009年の民主党政権発足で「ダム建設中止」が取りざたされ、八ッ場ダムは急に全国に知られるようになりましたが、この時はまだ忘れられたような存在でした。連休中だというのにダムサイト予定地の吾妻渓谷には、殆ど観光客の姿はありませんでした。

写真=吾妻渓谷の観光スポット、滝見橋より、吾妻川の景観を眺める永六輔さん、澤地久枝さん、加藤登紀子さん。八ッ場ダムの本体工事現場に近い滝見橋は現在、立入禁止となっており、橋桁が外されている。2008年5月1日撮影。
永さんと登紀子さん、澤地さん

 その日の夜、ダムの水没予定地にある川原湯温泉の共同湯「王湯」で、温泉街の若旦那衆が三人の客人をもてなす宴を開きました。

王湯 (2)shuku 地元の方々によれば、これまで川原湯温泉を訪ねた有名人は少なくないものの、国交省の仲介によることが多く、行政と関係なしにビッグネームの方々が訪れるのは珍しいとのこと。ダムに賛成していないということで警戒はしたものの、無視するのも失礼だということになり、歓迎会が開かれたのでした。(写真右=王湯 2014年6月30日 最後の営業日に撮影)

 会場となったのは「王湯」の大広間でした。
 (写真右下=日中は湯治客の休み処として開放されたが、地区の公民館としてかつてはダムの会議にも使われた。2013年9月28日撮影)

 一通りの挨拶が終わり、永さんがすっくと立ちあがって一曲披露するというので、「そういえば群馬の温泉地を巡る『いい湯だな』の歌詞は永さんが作ったんだよね」という話になったのですが、そのとき、永さんが唄ったのは『相撲甚句』でした。
王湯の広間 朗々と響く歌声に、皆、最初は呆気にとられ、やがて聞き惚れました。唄い終った永さんは、「私は歌手です」と仰いました。
 そこに居合わせた誰もがこの言葉に納得し、最初は緊張の面持ちだった地元の方々もなごんでゆきました。

 そのあと、永さんは子供のような世代の若旦那衆に、まるで父親が話しかけるように、励ましの言葉を投げかけました。ダムという言葉は一度も出てきませんでしたが、長年ダムに翻弄され続けてきた地元の方々の痛みを感じながら、寄り添おうとする気持ちが伝わってくるお話でした。
 次に永さんは、その場にいた全員が互いに繋がり合うようにとゲームの音頭を取り、そして、翌日も仕事があるからと、夜のうちに東京に帰っていきました。

 翌週も、その次の週も、永さんは土曜日のラジオ番組で八ッ場ダムのことを話しておられました。

王湯解体 八ッ場ダム事業は「ダム中止」を掲げた政権交代後、”政争の具”としてマスコミの餌食にはなったものの、政治主導は上滑りのままダム関連工事は片時も止まることはありませんでした。

 この間、水没予定地の川原湯温泉街は打ち捨てられてゆき、奇しくも王湯が解体された時に、永さんの訃報が届きました。
 (写真右=王湯の解体。2016年7月6日撮影)

 唄も話も心根も、本物だった永六輔さん、八ッ場の問題をまっすぐに受け止めて下さり、ありがとうございました。 合掌

写真下=王湯のあった場所。解体作業のため、温泉の泉源は古畳で覆われていた。川原湯温泉の元の湯は、今もここから湧き出ている。
 現在、川原湯温泉の代替地に引き湯されているのは、ダム事業によって1980年代に掘り当てた新源泉。旧源泉もダム事業によって代替地に引き湯されることになっているが、時期などは明らかにされていない。
2016年7月12日撮影
王湯の解体
元の湯の上に畳

 加藤登紀子さんが永さんを追悼した記事を転載します。

◆2016年7月20日 毎日新聞
 http://mainichi.jp/articles/20160720/k00/00e/040/301000c
ー追悼 永六輔さん「民」の目線、まっすぐな人=加藤登紀子ー

 永六輔さんに本紙の対談ページ、「Tokiko’s Kiss」に登場していただいたのが去年の7月6日でした(東京本社版)。何とその1年後の7月7日に亡くなってしまった!
 目の前に対談ページを広げ、颯爽とした永さんの笑顔を見て感慨無量です。

 「どんな時も笑わなきゃダメ」。それが口癖だった永さんは「パーキンソン病のキーパーソン」を自称。病気を笑い、自分自身の不甲斐(ふがい)なさやリハビリを笑いに変え、2011年の震災の後もメディアが自粛して笑いを封じた時、「最初に笑ったのは僕です」と自慢してらした。

 私が誘って、ダム建設に翻弄(ほんろう)された「八ッ場ダム」や、原発建設に反対した「祝島」に一緒に行った時も、鬱屈した空気を吹き飛ばす笑いの王者。
 メートル法に対抗した「尺貫法」を守る運動や、「自転車を無灯火で走って逮捕されよう」という運動も見事に笑える運動でした。
 自分で発電してはいけない、という法律を皮肉って、自転車の自家発電はどうなんだ、と責めたわけです。どんな時も「お上」に翻弄される「民」の側に立つ徹底した反骨、それが永さんでした。
   ■  ■
 「僕の終戦は3月10日」、1945年の東京大空襲で焼け出され信州まで逃げた、その時飢えて死ぬ人を見、路上のものを拾って食べて生き延びた。「だから僕らはみんな焼け跡の後遺症」と。

 その永さんは60年日米安保条約反対のデモに参加していた。その敗北の思いが「上を向いて歩こう」に。明るく元気になるための歌じゃない、ただ悔しくて悲しくて涙が出ちゃう気持ちを歌った、と。

 その永さんとセーラー服の私が出会ったのが、その頃だったんです。NHKの「夢であいましょう」の音楽を録音していた内幸町の「飛行館スタジオ」の支配人を私の父(加藤幸四郎)がしていたので、そのスタジオのカウンターでカツ丼を食べてた私をからかってたのが永さん。65年に日本アマチュア・シャンソンコンクールに優勝して歌手になって、中村八大コンサートのゲストで日本全国を旅した時も、時々現れる永さんに「しゃべりが下手だね」ってケラケラ笑われた。ずいぶん経ってから私がステージでそれなりに上手(うま)くやれているのを見て涙ぐむ永さんでした。2011年、私の著書「命を結ぶ」に登場していただき、初めてゆっくりお話ができ、その年の暮れの「ほろ酔いコンサート」にゲストにお呼びしたのでしたが、本番直前に大腿(だいたい)骨骨折で欠席。病院にお見舞いに行った時、「考えてみたら歌をひとつも一緒に作らなかったね」と、おっしゃったことがきっかけになって、言葉のメモのやり取りが始まりました。

 体調が良くない中でもいろんなアイデアが生まれ、最後にいただいた詞がこれでした。
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 「寂しさには耐えられる。悲しみにも耐えてみよう。苦しみにも耐えてみた。耐えて耐えて耐えられないのは虚(むな)しさ、虚しさ、空(むな)しさ。虚しさが耐えられるのは、ともだち、あなた、戦う心」

 いつも満点の笑顔が持ち前だった永さんから、意外なほど辛(つら)い言葉が届いたので、胸を突かれたけれど、私は曲をつけてみました。歌ってみると自然に永さんの胸の内が伝わるようで、無理をしていない言葉の真っ直(す)ぐさに、ああ、これが永さんなんだ、と思ったのです。

 ギリギリの思いで生ききった永さんからの、最後のラブレター。大切にします。(かとう・ときこ)