真田領地図 八ッ場ダム予定地を抱える群馬県吾妻郡は、戦国末期から江戸時代にかけて、100年以上、真田氏の支配下にありました。
 現在進められている八ッ場ダム事業では、右図の「吾妻渓谷」の地点にダム本体が建設され、「ながのはら」(JR吾妻線「長野原・草津口駅」)付近までダム湖となる予定です。
(右図=『真田太平記』、朝日新聞社より)

鳥居峠 戦国時代の真田領は中央分水嶺にまたがって、利根川と信濃川という二大河川の上流域に位置していました。
ダム予定地を流れる吾妻川は、群馬県と長野県の県境にある鳥居峠を水源としています。吾妻川の水は利根川を経て太平洋に至りますが、鳥居峠の西側に落ちる雨は、千曲川、信濃川を経て日本海へ注ぎます。

 鳥居峠から長野県の上田盆地の方へ下っていくと、最初にある開けた集落が真田氏発祥の地、真田町です。
 小さな真田郷の土豪であった真田氏が戦国大名として勃興する礎を築いたのは、大坂城・真田丸で奮戦した信繁(幸村)の祖父、幸綱(幸隆、1513~1574)の時代です。

霊山・四阿山(標高2,354メートル)。長野原町からの眺望。

霊山・四阿山(標高2,354メートル)。長野原町からの眺望。

 『真田三代』(火坂雅志)は、雨のそぼ降る鳥居峠のカラマツ林を行く幸綱の描写から始まります。
 「鳥居峠は二つの国を結んでいる。峠の西側は信濃国小県郡真田郷、東側は上野国の吾妻郡である。鳥居は四阿山の頂に鎮座する四阿権現への参拝口にあたり、峠に鳥居があったのである。」

 四阿山(あずまやさん)は修験道の霊山でした。真田のドラマで活躍する忍びの者たちの諜報網も、修験道と無関係ではありません。
 真田氏は鎌倉時代以降、上信国境周辺に広く分布した滋野一族の流れを汲むとされます。真田氏が吾妻郡に進出する以前、ダム予定地のある長野原を支配していたのは、同じ滋野一族の羽尾氏でした。羽尾氏は真田氏と同じく、滋野一族の惣領である海野氏直系を名乗り、海野氏の家紋である六連銭を家紋としていただけでなく、四阿山の信仰においても、鳥居峠を挟んで真田氏と精神的なバックボーンを同じくする氏族でした。

真田幸綱が掲げたとされる茜染に金糸の六連銭(長野市松代町「真田宝物館」)

真田幸綱が戦場で掲げたとされる茜染めに金糸の六連銭の旗指物(長野市松代町「真田宝物館」

 1541(天文10)年、海野平の合戦で武田、村上、諏訪連合軍に敗れた真田幸綱は、上野国に亡命しました。苦難に満ちた流浪の歳月、真田幸綱を庇護したのは関東管領の重臣、長野業正(箕輪城主、現・高崎市)であり、これを仲介したのは、長野原を領有していた羽尾氏であったといいます。
 しかし幸綱は、関東管領を頼みにしても旧領復帰は望めないと見極めると、1546(天文15)年頃には甲斐の武田晴信(信玄)に臣従する道を選びました。
 当時、信濃に勢力を拡大しつつあった武田氏は、かつて海野平の合戦で同盟を結んでいた村上義清と激突。幸綱は武田氏のもとで、村上氏が支配していた本領奪還に成功し、第四次川中島の戦いの翌年、1562(永禄5)年、武田軍の先鋒として吾妻郡への侵攻を開始しました。

長野原城址 長野原町誌によれば、それまで吾妻渓谷以西の西吾妻は、羽尾(長野原)、鎌原(嬬恋)、湯本(草津、六合)など各地の地侍の勢力が均衡して比較的平和でしたが、真田氏侵攻を機に戦乱に巻き込まれたといいます。
 武田方の真田氏を迎え撃ったのは、箕輪城主・長野氏を盟主とする西上野国衆連合であり、その背後には1561(永禄4)年に関東管領を引き継いだ越後の上杉輝虎(謙信)がいました。室町幕府の威光を背景とした関東管領の勢威が衰退した戦国末期の上野国は、周辺の北条氏、武田氏、上杉氏の草刈り場の様相を呈していました。
長野原城址からの眺望 1563(永禄6)年、真田氏、湯本氏らが守る長野原城を上杉方の斎藤氏、羽尾氏らが王城山から急襲した長野原合戦。真田方は吾妻川の琴橋、白砂川の須川橋を落として城を守ろうとしたが、城山の麓(現・長野原諏訪神社周辺)で激闘の末、敗退。真田幸綱の弟あるいは甥が戦死と伝わる。
写真右=長野原町役場裏手にある城山の長野原城址・本丸址と長野原城址から望む八ッ場ダム湖予定地。長野原城は白砂川と吾妻川の合流地点にあり、二つの河川に沿って走る街道もここで交わる。写真中央の尾根の手前を流れる白砂川は、八ッ場ダム建設を目的とした中和事業が上流の草津温泉で行われるようになる前は、須川(すかわ)と呼ばれ、名前の通りの強酸性河川であった。

羽根尾城址にある海野長門守の墓所。

羽根尾城址にある海野長門守の墓所。

 真田氏侵攻後の吾妻谷をめぐる興亡は、江戸時代に入ってから、沼田藩の祐筆であった加沢平次左衛門による『加沢記』に活写されています。東吾妻町の岩櫃城、長野原町の長野原城、王城山神社のほか、丸岩城、吾妻渓谷も戦いの舞台でした。
 真田氏は、亡命中恩義のあった長野氏、羽尾氏を滅ぼし、幸綱、昌幸(1547~1611)二代をかけて吾妻、沼田を制しました。
 長野原町誌には、真田氏に滅ぼされた羽尾兄弟の悲劇が哀惜を込めて綴られています。1581(天正9)年、兄の海野長門守幸光は岩櫃城下で、弟の能登守輝幸と幸貞父子は沼田城から逃走の途上で真田昌幸に誅殺されました。長門守幸光の遺体は遺臣によって羽尾氏発祥の地、長野原町羽根尾に運ばれ、手厚く葬られました。長野原の人々にとって、真田と勇猛に戦った羽尾(海野)兄弟こそ、郷土の英雄であったのでしょう。

吾妻渓谷の道陸神峠への道(東吾妻町、非水没地)

吾妻渓谷の道陸神峠への道(東吾妻町、非水没地)

 真田昌幸は滅亡した本家、海野氏に代わって、滋野一族を束ねる形で湯本氏など地侍衆を被官化し、領国経営を進めました。
 吾妻・沼田地域は山間部で耕地は少ないものの、上田、岩櫃、沼田の城を結ぶルート(真田道)は上信越の交通路として、戦略、商業両面で重要でした。真田氏は吾妻・沼田地域の交通網を整え、地域の発展に貢献しました。
 しかし江戸時代初頭、吾妻、沼田を領有した沼田藩の真田家は1681年に領地を召し上げられ、それ以降、吾妻は天領となりました。

水没予定地の真田道(長野原町・川原畑地区)

水没予定地の真田道(長野原町・川原畑地区)

 真田家の支配下で整備された「真田街道」―真田道と呼ばれる沿道や城跡の周辺には、今年のNHKドラマ『真田丸』にあやかろうと、赤と黒の幟旗が並べられています。
 けれども、ダムに沈む真田道は顧みられることがありません。

写真下=群馬県と長野県の県境、鳥居峠の吾妻川源流の森
吾妻川源流(長野県の方向)

写真下=鳥居峠から流れ下る吾妻川。嬬恋村古永井地区。八ッ場ダム予定地の上流。

吾妻川源流近く(嬬恋村古永井地区)

吾妻川源流近く(嬬恋村古永井地区)

写真下=ベレー帽のような形をした丸岩は、八ッ場ダム予定地域のシンボル的景観。山麓を草津方面への街道が通る丸岩にも山城があり、真田氏、羽尾氏による争奪戦が繰り広げられた。羽尾氏は1581(天正9)年に長門守、能登守兄弟の死によって滅亡したと思われたが、翌年、兄弟の甥にあたる羽尾源六郎が反真田の国衆、上杉景勝の支援により、亡命先の越後から帰還し、丸岩城に立てこもった。 
丸岩と菅峰

写真下=林地区の王城山神社。1563(永禄6)年、真田幸隆は上杉方の岩下城(東吾妻町)攻撃のため、林の郷、諏訪の森に本陣を置いた(『加沢記』)。王城山神社は明治42年以降の名称で、それまでは諏訪神社。
『王城山神社略縁起』によれば、真田幸綱が吾妻を領有するに及び、諏訪神社の上社を王城山山頂に勧請(奥宮)。真田氏の崇敬厚く、祈祷料の寄進数次、土地寄進、長野原郷の総鎮守とされた。
王城山神社

写真下=長野原城址の箱岩。吾妻川右岸の丸岩城に対して、左岸の長野原城は頂上付近に箱のような巨岩をいただくことから箱岩城とも呼ばれた。箱岩は吾妻川の両岸に広がる王城火山の噴出物の一部という。
長野原城址の箱岩

写真下=八ッ場ダム事業による付替え県道の一部として建設中の白砂川橋。草津・六合方面から流下する白砂川が吾妻川に注ぐ地点で、JR長野原草津口駅が右手、長野原諏訪神社が左手にある。
白砂川橋

写真下=吾妻渓谷の八ッ場ダム本体工事現場。真田道は吾妻渓谷左岸の八ッ場を通り、川原畑地区の諏訪神社のあたりから久森峠を越えて林地区の諏訪神社(王城山神社)へ至った。
左岸の岸壁にコンクリート (2)

*国土交通省八ッ場ダム工事事務所が公表している「八ッ場ダム環境保全への取り組み」によれば、八ッ場ダムが完成すると、四阿山、岩櫃山、王城山などの山頂からの「眺望景観が変化すると考えられます」。
http://www.ktr.mlit.go.jp/yanba/yanba_kankyou08.html
「八ッ場ダム環境保全への取り組み」(国交省関東地方整備局 八ッ場ダム工事事務所、平成27年4月)
 第5章  環境保全への取り組み(調査、予測及び評価の結果)9景観 15ページ