1966年に完成した薗原ダムの水没地に国が未買収の共有地があったことが最近になってわかったということです。この問題について、詳しい記事が群馬版の新聞に掲載されています。

◆2015年12月24日 朝日新聞群馬版
 http://digital.asahi.com/articles/ASHDQ63XCHDQUHNB00Q.html?rm=430
 -薗原ダム湖底に未買収地 国の相続者探し難航ー

ダム建設をめぐり昭和30年代に「西の松原・下筌(しもうけ、筑後川水系)、東の薗原(そのはら、片品川)」と呼ばれるほど反対運動が激しかった薗原ダム(沼田市利根町)。そのダム湖の底に、未買収の住民の共有地が存在する問題が浮かび上がっている。国土交通省は改めて買収を試みるが、土地所有の記録が古く、難航。住民らは国、県、沼田市にこれまでの対応を批判する文書を送った。

 未買収地は、水没前の片品川河川敷に沿った旧利根村薗原樽下と前畑の計7千平方メートル余り。3区域あり、1892年の最初の登記では23人、22人、12人でそれぞれ共有している。ただ、登記簿に相続者名が記されているのは一部で、大半は最初の所有者名のままだ。

 未買収地の存在に気づいたのは、薗原で民宿を営む中沢均さん(67)。亡くなった元村議の相続放棄の農地などを引き受けた際に、22人共有の未買収地のうち元村議が買い集めた3人分が一緒に付いてきた。うわさでは聞いていたが、実際に登記簿を見て驚いた。

 中沢さんの相続地にも湖底にわずかな未買収地があり、渇水期にそこで断りなく掘削工事が行われたため、中沢さんは2011年、元村議からの分とともに、水を撤去し引き渡すよう求め国を提訴した。すると今度は裁判の中で、22人分以外にも23人と12人の未買収の共有地があることが国提出の書類で分かった。

 国にとっても驚きだった。ダム完成直前の1965年11月、当時の旧利根村長が土地買収への国の協力要請に「村が一切を処理し国に迷惑はかけない」と文書で約束。「すべて片付いたと思っていた」(利根川ダム統合管理事務所の太田久副所長)という。

 判決は、水の撤去は退けたが、中沢さんが土地所有者であることを認定。賃料支払いを国に命じた。

 判決を受けて国は共有地の買収を改めて始めたが、壁にぶつかった。明治時代と現在の権利者を結ぶには戸籍を調べればいいが、戦後間もなく旧利根村の前身の旧東村役場が全焼し、戸籍は焼失していたからだ。

 誰かが名乗り出たとしても、相続人と認定するには証拠や関係者の同意が必要になる。国は関係者の聞き取りを重ねながら子孫を追う、手間のかかる作業に乗り出している。

 旧利根村長の約束の背景には、協力の見返りへの期待があった。国、県、村の三者は62~65年に何度か、地域振興策推進の協定書などを交わしている。
 その中には実現した項目もあるが、未着手の事業もある。中沢さんは「田舎の高齢者をだましてダムを造り、あとは知らないでは済まない」と話す。

 中沢さんや、共有地を相続した他の住民3人は11月末から12月初めにかけて国などに要望書を送った。この中で「ダム職員は『建設当時の事情は、書類がなく不明』と問題を先送りしてきた」と批判。協定書などで約束した通り、林道改修や、老神温泉への遊歩道建設の早期着工など地域振興策を改めて求めた。(井上実于)

〈薗原ダム〉 沼田市利根町の片品川をせき止めて造られた高さ約77メートル、幅約128メートルの重力式コンクリートダム。有効貯水量は1414万立方メートルと利根川上流ダムで最も少ないが、流域面積は608平方キロと最も広い。終戦直後の台風による洪水を機に計画が強力に進められ、1959年に着工、66年に完成した。旧利根村史によると60余戸~69戸が水没したとされ、激しい反対運動が起こった。

キャプチャ —転載終わり—

 薗原ダムは新潟県境の利根川源流に近い片品川に半世紀前に建設され、八ッ場ダムは長野県境から関東平野に流れ下る吾妻川に建設中です。(薗原ダム=緑色の丸印、八ッ場ダム予定地=赤色の丸印、国交省資料より作成)
 薗原ダムは山間の僻地に計画されたため、当初、国は住民の反発がそれほどあるとは予想しなかったと言われますが、少数の住民が最後まで反対運動で抵抗しました。

 八ッ場ダム計画は薗原ダム建設後に動き出し、八ッ場の住民らは薗原ダム反対運動の教えを引き継いで運動を展開しました。
 薗原ダムを含む巨大ダムが次々と建設された利根川上流では、ダム建設が続いた間は賑わいがありましたが、建設事業終了後は、期待されたダム湖観光では集客に限界があり、現在は過疎の問題に直面しています。

 一方、事業が長期化してきた八ッ場ダムの水没予定地では、今も居住している住民の方々がおり、国が未買収の共有地もあります。古くからの共有地は相続者が多数に上り、相続者が不明なケースもあることなどから、契約による土地の取得が困難とされます。 

 国交省関東地方整備局(ダム起業者)は、八ッ場ダム予定地に所有者の不確かな共有地があることを理由に、今年1月、強制収用を視野に入れた土地収用法に基づく事業認定手続きを開始しました。事業認定の告示が行われると、起業者は群馬県収用委員会に裁決を申請し、裁決が出ると国交省は未契約の私有地や相続者不明の共有地の取得が可能となります。
本体工事施工業者の事務所トリミング 八ッ場ダム予定地では今年1月より、薗原ダムを建設した清水建設の共同事業体が鹿島建設の技術を利用して本体工事を始めています。国交省は水没予定地の住民らに立ち退きを迫ってきたものの、任意交渉による用地取得を目指してきており、まだ事業認定は告示されていません。(写真右=本体工事現場に近い川原湯地区の打越代替地に立つ清水建設JVの事務所)

 薗原ダムの記事を書かれた記者は、40年前、まだ八ッ場ダムの反対闘争が激しかった1970年代、川原湯温泉に泊まり込んで住民の反対運動を詳しく報道した方です。中でも、1977年10月4日に始まった連載記事は、「対立の構図」22回、「渦の中で」11回、「もつれる糸」15回、「終わりに」3回と、50回以上も続き、その中身の濃さは地元民も驚かせるほどだったといいます。

 この連載の中に、八ッ場ダムと薗原ダムの反対運動の繋がりを伝える記事がありますので転載します。
 記事が掲載された1970年代後半、地元住民による反対期成同盟に対して、国に後押しされた群馬県は水面下でダム予定地域の切り崩しを進め、1980年には追い詰められた反対運動は条件闘争へと後退を余儀なくされました。

◆1977年10月 朝日新聞群馬版
ー八ッ場ダム 対立の構図 ⑩

 反対運動がそのスタート時点で、「絶対反対」という固い意思一色で塗りつぶされたものでなかったことは確かなようだ。たとえば最も反対、賛成両派の対立が激しかった川原湯でさえ、(昭和)四十年十二月二日の反対同盟設立総会では「今の段階では反対運動を強力に進めるが、ある時点がきたら債権の条件についても研究しよう」というのがひとつの結論だった。初代の反対同盟委員長の樋田亮平さん(山木星旅館)も発足当初を振り返って「われわれのような古い時代の人間には、どうしても国家が必要とするならやむを得ない、という考えはある。だが、それでもいい加減な妥協はできない。とにかく、条件派と称する人たちの余りにも積極的な姿勢に納得がいかなかったのだ」と語っている。

 ダム先進地を視察
 だが、やむを得ないいきさつで反対のノロシを上げてみたものの、実のところ住民たちはダムについて何の知識も持ち合わせていなかった。ダムがどんなものか、地域はどう変わるのか、国はどういう攻め方をしてくるのかー それを知るのが先決だ。そこでまず、ダム先進地の視察に乗り出す。
 完成間もない薗原、工事中の下久保、これから工事に入る神戸(草木)、全国の注視の的だった蜂の巣城。成田の空港反対闘争ものぞいてみた。八ッ場と並んで国の攻勢にさらされていた沼田ダムの住民たちともたびたび話し合った。
 草木ダム予定地では「政治家にうまく言われて一晩で反対の旗を降ろした。そうしたら途端に、県や国の役人もその政治家も知らん顔になって、相手をしてくれなくなった」「結局は村人がよそへ出てしまい、過疎化になって公共施設をつくる必要もなくなってしまう。残る者がバカを見るだけだ」と切々と訴える声を聞いた。落合企業局長が「うまくいった」といっていた下久保でも「バスに乗り遅れるぞ、というかけ声で争って条件賛成についてみたが、結局早く賛成した人ほどもうからなかったみたいだ」「補償金額が大違いで、本調査になったらそんなに出せぬという」「勤め人はまあ良いが、新しく事業を始めた人は失敗したようだ」という話である。

 かけ離れた実態
 初めて聞く話ばかりだったが、県や国の役人が言うバラ色の夢とは余りにもかけ離れた実態が心に深く焼きついた。「どうもこれは、条件派が言うほど話は甘くはないな」という確信が頭をもたげてきた。
 八ッ場の住民たちに決定的な影響を与えたのは、薗原ダム反対期成同盟代表の石川宗太郎さんである。石川さんは、水没した故郷を捨てて前橋に移り住んでいた。下久保や草木とは違い、このダムでは賛成、反対の激しい攻防が繰り広げられた。期成同盟もたびたび分裂を強いられたが、石川さんはその中で最後まで反対の旗を捨てずに戦い抜いた十数人の住民のリーダーである。喜んで自宅に迎えてくれた石川さんは、精力的な赤ら顔をほころばせ、じっくりとダム反対闘争の何たるかを教えてくれた。当時の手帳によると次の通りである。

 ”バイブル”の教え
 統一できた者の団結が一番大切で、数の問題ではない。国は最終段階になると委員長一任で結末をつけたがる。条件派が多数に分かれ、だれもが委員長になりたがる理由も、委員長になれば最後の選択の段階で自分に有利な方向に結論を下せるからだ。だが、本当のところは賛成者は最後には相手にされなくなる。建設省の人間は、冷淡冷酷で口では言い表せないほど非情なものである。県の人は現地に入れても、建設省は追い払う。向こうは波状攻撃してくるから、反対の意思表示の看板を掲げる。自分の土地の周りを調査されると自分の土地の内側まで測り込まれて損をするというが、絶対に立ち会わず横を向いていること。
 土地収用は驚くに当たらず。当局の強制弾圧には空手で抵抗せよ。当局は親類、縁故を使っても切り込みを図る。結局はハンコさえ押さなければダムはできない。ただ黙っていると、当局は承知したものと受けとりたがる。だから、向こうから何かしてきたら反対陳情を書留速達で絶えず送ること、持って行って会うのは避ける。国のダムに関する書類は全部役場から報告させ、必ず反論文書を出す。当局はいつでも和解したがる。反対同盟が崩れなければ向こうから最敬礼しておぜん立てして持ってくる。最終的に大部分が賛成派に回り、補償を受け入れる時期の判定が一番重要である。

 この石川さんの言葉は、八ッ場ダム反対期成同盟のひとつの”バイブル”として、今でも住民たちの胸の奥に焼きついている。何よりもその後、八ッ場ダムを造るため国がやってきたことが、石川さんの言葉通りだったからである。
 困った時の相談相手ができた、と住民たちは喜んだ。だが、三度目に石川さんの自宅を訪れたとき、石川さんはすでにこの世にはいなかったのだ。

—転載終わり—

 川原湯温泉の移転地である打越代替地。旅館や住宅、本体工事業者の飯場が立ち並ぶ代替地の山腹は樹木が伐採され、土も掘削されている。これから最終法面をつくるという。ダムに水が貯められると、代替地はダム湖畔になる。
打越代替地の法面

 本体工事で掘削された吾妻渓谷の土砂は、地すべり地として知られる川原畑地区・二社平(かわらはた・じしゃだいら)に運ばれ、抑え盛り土として利用されている。手前に青緑の吾妻川。二社平の左に穴山沢の流路工。穴山沢の盛り土の上にクラインガルテン(観光農園つき貸別荘)。
二社平の抑え盛り土

 八ッ場ダム水没予定地、林地区・久森(くもり)にも吾妻渓谷の掘削した土砂が運び込まれている。ピラミッドの底部のように見える盛り土があるところは、昨年までは田んぼだった。
久森の抑え盛り土