利根川上流ダム群の一つ、薗原ダムの湖底に、国が買収していない土地があることが昨年12/24付けの朝日新聞群馬版に取り上げられました。
 さる3/5、同じ紙面にさらに詳しい報告が掲載されました。紙面には、現在、八ッ場ダム本体工事で行われている基礎岩盤の掘削工事が薗原ダムで始まった1962年当時の写真が載っており、薗原ダムと八ッ場ダムの反対闘争との繋がりについても書かれています。

中和工場 八ッ場ダムは薗原ダム等の利根川上流ダム群と同時代の1950年代に計画が発表されました。しかし、ダム建設地の吾妻川が酸性河川という悪条件であったことから、そのままではダムを建設できず、事業の具体化は他のダムより大幅に遅れました。(写真右=草津温泉にある中和工場。草津の強酸性の温泉水が流れる吾妻川の支流・湯川に石灰ミルクを投入する。)
 吾妻川の中和事業を軌道に乗せ、酸性河川の問題を克服して八ッ場ダム計画が実際に動き始めた1965年には、薗原ダムはすでに湛水を開始しており、薗原ダム反対闘争の地元のリーダーは前橋に移転していました。薗原ダムの反対闘争の教訓は、八ッ場の住民に伝えられ、川原湯温泉を中心とする八ッ場ダム反対期成同盟のバイブルになったということです。

 しかし、各地のダム闘争と対峙した建設省も、積み重ねた経験を活かして、起業者にとって有利な法整備を進めたため、八ッ場ダム反対期成同盟は1970年代後半には勢力を失っていきました。

品木ダム上流の貯砂ダム ”ダムの国”といわれるわが国で、ダム闘争に敗れた閉ざされた地域の住民は、それぞれ別の土地で新たな生活を営まなければならず、過去は封印されてきました。物言わぬ敗者たちの歴史は打ち捨てられ、税金を投じてダム建設の”偉業”を誇る印刷物が刊行されるばかりです。
(写真右=吾妻川の支流・湯川の貯砂ダムにたまった中和生成物。貯砂ダムの下流には中和生成物を貯める目的で半世紀前に建設された品木ダムがあるが、品木ダムはヒ素を含む堆砂の問題を抱えている。八ッ場ダムの前提となっている吾妻川の中和事業は事業開始から半世紀を経て行き詰まりを見せている。2016年3月6日撮影。参照:「死の川だった吾妻川ー中和対策の今後
 

 

◆2016年3月5日 朝日新聞群馬版
 http://www.asahi.com/area/gunma/articles/MTW20160305101060001.html
ー記者報告)薗原ダム湖、なぜ未買収地が /群馬県ー

(写真)掘削作業が始まったころの薗原ダム工事現場=1962年6月22日
(写真)完成間近の薗原ダム=1965年10月1日

 沼田市利根町の薗原ダムの湖底から未買収の共有地が見つかった問題は、建設当時、国が激しい反対運動に直面する一方で、用地買収でも厚い壁にぶつかっていた苦難の裏面史を浮かび上がらせた。結局、相続人が特定できない状況は当時も今も変わらない。関係者が「全く知らなかった」と口をそろえる異例の事態はなぜ起きたのか。背景を探った。

 ◆元は馬の捨て場

 共有地の存在は湖畔で民宿を営む中沢均さん(68)が、自らの相続地で断りなく工事をした国を訴えた裁判などで明るみに出た。

 3区域あり、1892(明治25)年3月30日付で最初に登記されている共有者は、樽下(たんのした)の6902平方メートルが22人、同370平方メートルが12人、前畑の計533平方メートルが23人。しかも、共有者の大半に相続の記録はなく、最初に登記された名前のままだ。

 なぜか――。地区に残る明治初期の土地の帳簿(取調野帳)と「共有地人名簿」には「斃馬(へい・ば)(死馬)捨場」とある。水没前の片品川河川敷に沿った一部崖状の使い勝手の悪い土地だ。ある住民は「宅地や田畑と違って見向きもされなかったのだろう」と話す。元村長の金子武さん(86)も「馬捨て場は欲しがるもんじゃない」と耳にした記憶があるという。

 そんな土地が買収の対象になり、相続者はだれかを特定する必要が生じた。戦後、民法改正で子が均等に相続する制度に変わって権利が細分化し、さらに役場の火災で戸籍帳簿が焼失し、国の相続者探しは暗礁に乗り上げた。

 ◆県が湛水せかす

 旧建設省利根川ダム統合管理事務所が1967年に発行した「薗原ダム工事報告書」には、ダムに水をためる湛水(たん・すい)開始の64年11月の段階で、土地買収面積の約95%の契約が完了したとある。残ったのは「部落持ち共有と新民法による相続に起因するもの」と書かれており、相続者探しに最後まで手間取った状況が記録されている。

 当初、国はこうした状況での湛水に慎重だった。当時の関東地方建設局(現関東地方整備局)の渡辺嘉司用地部長は、同じ報告書で「局長は補償完了まで湛水しない考えだったが、一日も早くという群馬県側の要望も強く、県企業局長の訪問や再三の電話を受け、局長の了承を取り付けた」という裏話を明かしている。

 未買収地が残るのに、県が国に見切り発車を迫ったのは、薗原ダムの水で利南と白沢の県営発電事業を予定していたからだ。当時の神田坤六(こん・ろく)知事は住民の生活再建などを「全力で推進する」と宣言し、見返りに「湛水への協力」を依頼する文書を64年11月、地元に送った。

 ◆忘れられた約束

 用地買収の最後の一幕は、中沢さんとの裁判で国の資料が明かした舞台裏のやりとりだった。

 最後まで抵抗した薗原鉱山事務所が収用されると、ダム工事事務所は65年10月、当時の星野力蔵村長に「共有地は権有者の50%が戸籍上不明で取得できない。持ち分権請求があったら村が一切の処理を」と要請。村長は「村が一切を処理し、国に一切迷惑はかけない」と文書で約束した。だが、村が課題を引き継いだ形跡はない。

 当時の村議の新井大一さん(90)は「相続人を当たった記憶はあるが、どう解決したかは分からない」。星野氏の3代あとの村長だった金子さんも「前任者が苦労した案件に後任者は手を付けたがらないもの。私にも引き継ぎはなかった」と話す。中沢さんが訴えるまで持ち分権請求そのものがなく、約束は忘れ去られる結果になったのか――。

 旧利根村と合併した沼田市や県も、中沢さんから通告されて初めて経緯を知った。関係資料を探したが見当たらないという。「利根村誌」にも「工事報告書」にも記録がない、裏の「約束」だった。

◆八ツ場にも影響

 吾妻川に建設中の八ツ場ダムにも、所有者の所在が分からず買収交渉ができない共有地があると、国土交通省八ツ場ダム工事事務所は言う。国は薗原で手を焼いていた64年に土地収用法を改正し、所有者らが分からない場合は収用委員会の裁決で取得できることを明確化した。最終的にこの方法を採れば、八ツ場は薗原のようにならなくて済む。

 しかし、薗原はそれ以前に八ツ場に大きな影響を与えたダムだった。65年12月に結成された八ツ場ダム反対期成同盟は、視察で薗原ダム反対同盟代表の石川宗太郎さんと出会う。

 「統一できた者の団結が大切」「建設省の人間は冷淡冷酷。県は現地に入れても建設省は追い払え」「最終的に大部分が賛成派に回り補償を受け入れる時期の判定が一番重要」……。

 石川さんは立ち上がったばかりの八ツ場住民に、ダム反対闘争の何たるかを熱く語った。その教えを「バイブル」として、八ツ場はそのあと長く厳しい闘いに突入していった。(井上実于)

■薗原ダムの共有地をめぐる経過(肩書は当時)

1892年3月30日 樽下(たんのした)と前畑の共有地を登記

1959年4月1日 薗原ダム建設事業開始

1962年9月10日 工事事務所、県、旧利根村が地域振興などで協定書

1964年11月16日 神田坤六(こん・ろく)知事が村と住民に湛水(たん・すい)への協力依頼

     17日 湛水開始

1965年10月26日 工事事務所長が星野力蔵村長に共有地の処理を依頼

   11月4日 村長が工事事務所長に「村が一切を処理」と回答

1966年2月28日 薗原ダム建設事業が終了

2009年12月8日 中沢均氏が買収した土地の中に共有地を発見

2011年3月3日 中沢氏が所有地引き渡しを求め国交省を提訴

2015年11月27日 中沢氏が国交省、県、沼田市に早期処理の要望書提出