■2013年6月19日 朝日新聞群馬版

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ー「県は財政支援を」長野原町長、議会で答弁ー

八ツ場ダムが建設されれば水没する世帯がある長野原町の5地区で、 移転代替地に計画される地域振興施設の維持管理費をめぐり、 長野原町の高山欣也町長は18日、県に対し、下流都県と協議したうえで 財政的な支援を行うよう求めた。町議会で、牧山明町議の一般質問に答えた。

高山町長は、1987年に町と県が結んだ生活再建に関する覚書の中で、 県水源地域振興公社(仮称)を設立し、施設を運営管理するとの「約束」があると主張。 「町としては今でも果たされるべき約束と認識している」と述べた。

この問題で県は、6日の県議会産経土木常任委員会で、特定ダム対策課長が、 下流都県も県も維持管理費の負担は困難と答弁。「町に昨年、正式に伝え理解を得た」としていた。

だが、高山町長は答弁で「すでに代替地で多くの住民の新しい生活が始まり、 生活関連事業を望んでいる。公社が無理なら、それに代わる町への財政的支援について、 県の責任で下流都県と協議し、実施するべきだ」と求めた。(小林誠一)

~~~転載終わり~~~

 記事中では、長野原町と群馬県が生活再建に関する覚書を1987年に締結したとありますが、 覚書は1985年に締結されています。
 当時、長野原町長だった樋田富治郎(川原湯温泉の山木館先代当主)は、1969年代後半から八ッ場ダム反対期成同盟の委員長をつとめ、八ッ場ダムに反対する住民の支援を受けて1974年に初当選しました。
 しかし、樋田町政の16年の間に、反対期成同盟は弱体化し、長野原町はダムを受け入れざるをえない状況に追い込まれました。この間、住民の反対運動は、地元の旧・群馬選挙区選出の大物政治家らの思惑に翻弄されました。福田政権(1976~78年)の下で地元は切り崩され、反対期成同盟が頼みとした中曽根康弘が1982年から87年まで長期政権を維持する中で、長野原町は孤立し、群馬県が差し伸べた「生活再建案」の約束にすがるしかなくなりました。
 「生活再建案」の中で群馬県が提示した”約束”の要とされたのが、水没集落を水没線より標高の高いところに移転させることが可能となるよう、代替地を整備することと、「水源地域振興公社」により200人の雇用を生み出すことでした。八ッ場ダムへの反発が最も強かった川原湯地区の世帯数は、当時約200世帯で、「水源地域振興公社」が生活再建のセーフティーネットの役割を果たす筈でした。
 
 それから28年たった今、群馬県は「水源地域振興公社」を下流都県の同意が得られないという理由で白紙にし、長野原町への財政支援も否定しています。
 八ッ場ダム計画を受け入れた当時の住民は、樋田元町長をはじめ亡くなった方が多く、高齢化と人口減少に苦しむ地元は、国ー県ー町という行政の縦のラインの末端で泣き寝入りの状態にあります。