八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

八ッ場ダム予定地、貴重な遺跡保存をー椎名先生の投稿記事

 八ッ場ダム予定地の遺跡についての記事が3日前の紙面に掲載されていましたので、転載します。

◆2013年4月10日 しんぶん赤旗

 -八ッ場ダム予定地 貴重な遺跡保存を 椎名慎太郎ー

 群馬県の八ッ場ダムは多くの識者から不要な公共工事の典型と批判されているが、その予定地で進められている遺跡調査で貴重な発見が続いている。縄文早期初頭(いまから約1万1000年前)にはすでにこの山間地域で人の営みが始まっていたようだ。そして、縄文中期の後半(いまから約5000~4500年前)には、この地域で何カ所かに数家族が住みついており、おそくら縄文後期(いまから約4000年前)まで、数は少なくなるが、この地域で狩猟と採集を中心とした生活が続いていたと思われる。

 環状集落跡が何カ所も残る

 東日本各地で縄文人の生活の跡がみつかっているが、この地域にもかなり継続的な生活があったことが実証されたことになる。「数家族」と聞くと、なんだか寂れた集落のように感じるが、縄文集落は、同時期には3軒から10軒程度までが普通で、数百年~千年単位で住居の建て替えが繰り返されると、中央が開いた環状の集落跡が形成される。この地域では、この環状集落がとてもいい状態で何カ所も見つかっている。
 八ッ場の遺跡調査結果で何よりも驚かされるのは、1783(天明3)年8月の浅間山噴火の泥流に埋まった民家15棟がほぼ完全な形で発見された東宮(ひがしみや)遺跡だ。泥流は吾妻渓谷入り口近くでいったんせき止められ、反流となってこの場所を埋めたらしく、かなりの遺物が流されることなくそのまま泥流の下から出てきた。中でも、刻みたばこをつめたままのキセルのがん首は、現場がどれほどの混乱状態にあったかを示す遺物で、一服つけようとしたまさにその時に泥流がきたことを物語っている。
 この遺跡は埋まって以来、ずっと水につかった状態であったため、他の遺跡では消えてしまう木製品の有機物がそのまま残っている。陶製のつぼに残された梅干、麻の実がつまった桶、養蚕用の木鉢と繭づくり直前のカイコなど、当時の生活や生業の跡をそのまま示す遺物がたくさん見つかっている。天明の浅間山噴火では、この近くに何カ所か日本のポンペイとされる遺跡があるが、その中でも東宮遺跡はもっとも生々しい姿をとどめている。

 新しい光あて、地域活性化を

 この地域の貴重な遺跡は、ダムができれば永久に姿を消す運命にある。この遺跡群をなんとか遺せないかと、「八ッ場あしたの会」や「ダム検証のあり方を問う科学者の会」が国土交通省や文化庁に今年2月末に要請を行ったが、反応は鈍かった。長年の紛争に疲れ果てた地元でも、この訴えに呼応する動きはほとんどない。だが、「箱庭的小世界」に立地した、見事な縄文集落跡や江戸後期の山村の豊かな姿を保存して、フィールドミュージアムにすることで、長年のダム問題でさびれ果てたこの地域に新しい光があたる可能性が生まれるのではないか。無用なダムに代わる新しい地域活性化の可能性をみんなで考えてみたいものだ。(しいな・しんたろう 山梨学院大学名誉教授)