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『城原川ダムの半世紀』(佐賀新聞)

 国交省九州地方整備局が進める城原川ダム事業の経緯について、地元の佐賀新聞が詳しい記事を連載しています。
 連載初日に掲載された同ダム事業についての記事は、こちらに掲載しています。
 https://yamba-net.org/wp/?p=21640

 第一回~第五回の連載記事がネット上に公開されています。
 地元がダム事業によって分断され、疲弊してゆく様が具体的に綴られており、八ッ場ダム予定地の経緯と重なります。

◆2017年6月4日 佐賀新聞
http://www.saga-s.co.jp/column/saga_rensai/20404/435012
ー城原川ダムの半世紀(1) 描けぬ将来 「ダムに人生翻弄」

 調査開始から46年がたつ城原川ダム計画。建設予定地の地元や下流域で住民の賛否が分かれ、紆余(うよ)曲折した国の巨大プロジェクトに翻弄(ほんろう)されてきた地域の軌跡をたどる。

■国の政策、二転三転

 「城原川ダム勉強会綴(つづり)」「現地立入調査関係綴」…。本棚に資料をとじたファイルがずらりと並ぶ。神埼市脊振町(旧脊振村)の山あいにある眞島修さん(79)宅。水没予定地区の住民団体代表になって約20年間、ノートには事細かに「事業記録」をつづった。ダム計画の足跡だ。

 「不明瞭であることは住民は不安でならない。専断的政治手法に怒りを覚える」。政権交代で計画凍結が浮上した2009年10月の一文。ページをめくると、苦悩の日々がよみがえった。1971年の調査開始から46年。「ダムに人生を振り回されたよ」

 深い木々に囲まれた城原川の渓谷にダムを造る計画が持ち上がったのは眞島さんが34歳の頃。自宅のある岩屋地区と隣の政所地区など約60戸が水没予定の網に掛けられた。「ダムができれば、いずれは立ち退く」。国策が静かな山里の暮らしに重くのしかかった。

 小学生の時に建てられた家は修理を重ね、米びつを置く小屋は改修して居間となり、雨漏りがしたり床が抜けたりした。「家はもうぼろぼろ」。それでも建て替えはできない。将来設計が描けない中、集落はどの家も補修を最小限に抑え、時間が止まったように山村の風景が残された。

 村役場を定年退職した直後の98年6月、地元の「城原川ダム対策委員会」の会長を任された。難解な用語や住民の不安が絡むダム。連日、村から佐賀市にある国の事務所や県庁に出向いて情報収集に奔走した。

 無駄な公共事業や環境破壊のイメージの広がりによってダムに厳しい視線が注がれ、城原川ダムも中止が何度も取りざたされた。計画は進まずに月日ばかりを重ね、国の判断も二転三転した。「このままでは蛇の生殺しだ」。水をためない「流水型ダム」の結論が示されたのは2005年。当初のダムの姿とは異なるものの、計画開始から34年がたっていた住民には「早期決着」しか選択肢はなかった。

 「来年あたり一筆地調査に入れそう」。国の担当者から朗報が届いた。補償交渉のめどが立ち、「国のいいなりになるまい」と対策の勉強会に本腰を入れようとした矢先だった。09年、「コンクリートから人へ」を訴えた民主党政権が誕生した。城原川ダムは検証の対象となり、再び宙ぶらり状態に。「何もかもゼロになった。奈落の底に突き落とされた」

 自公政権に戻ってからもダムの動きは鈍かった。県政のトップが交代した直後の15年3月、山口祥義知事が集落を訪れた。インフラ整備から取り残された地域を見て回り、「皆さまの長年の苦しみは行政の責任。第一に考えていきたい」。住民たちは拍手を送った。

 城原川ダムは1年余りの協議を経て継続が決まった。国は調査に関する協定を住民側に持ち掛けた。示された期間は「5年」。「補償交渉がまた遅れる。何を悠長なことを…」。眞島さんは切実な思いをぶつけた。今年1月、両者が結んだ協定書の期間は「3年」に短縮されていた。

=浮沈の果てに=

◆2017年6月5日 佐賀新聞
 http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/435270?area=similar
ー城原川ダムの半世紀(2) 住民分断ー

 ■「ダムが先か命が先か」

 計画は川のように上から下へ流れた。城原川の上流部の脊振村(現神埼市脊振町)に1950年代から浮上したダム問題。サイトの候補地は村の北部から中心部へと移り、村を挙げた反対運動も経て、最終的に南部の神埼町(現神埼市神埼町)の境界「脊振小原(こばる)」にえん堤が計画された。

 「小原ダム(城原川ダム)ができる」。水没予定地に挙がった岩屋、政所地区は「村の玄関」として早くから開発されていた。71年に予備調査が始まり、国との交渉のため、地元は全国のダム建設地と同じように住民団体を立ち上げたが、亀裂が走った。

 「何でこやんよかとこに」。政所地区の實松英治さん(75)は当時、ダムの話を聞き、当然のように反対に回った。自然に囲まれ、春先の新緑と清流のまばゆさは山里の誇り。近くに酒やたばこをそろえる商店もあり、生活は何一つ不自由ない。団体を離れた住民たちは85年、「ダム建設反対等同盟」を組織した。

 国からは絶えず地元への立ち入り調査の可否を突き付けられた。「調査してみないことには」「一度でも許したらいかん」。容認派と反対派の溝は深まり、地域は混迷の一途をたどる。住民同士の会話は減り、近所でさえあいさつを交わさない。葬儀も別々。仲の良い住民たちは周囲の目を盗んで会うようになった。

 選挙の度に争点になるダムの是非。「説得に回ってないか」。小さな集落だからこそ勘ぐりはやまない。「深い絆がある間柄だが、心の内は分からなくなった」。實松さんは地域に生まれた軋轢(あつれき)になすすべがなかった。

 反対派は国に対する徹底抗戦を崩さなかった。89年、ダム建設予定地の渓谷に「絶対反対」の看板を掲げた。翌年には10人以上の仲間で役場に乗り込み、村長に直接思いをぶつけた。「手放した古里は金で買えない」。愛着ある平穏な暮らしを守りたい一心で訴えた。

■体力、気力もすり減らす

 国の方針や水事情の変遷が絡み、2000年代に入っても、計画は不明瞭なまま遅々として進まない。「反対は補償金を上げるのが目当て」。外から言われなき中傷も受け続けた。気勢を上げていた人たちも寄る年波には勝てない。成人した子どもたちは村を離れ、空き家も出てきた。予備調査から30年余り。過疎にあらがえず商店は次々に閉まり、同盟を率いたリーダーたちも亡くなっていった。

 「ダムが先か命が先か。体力も気力も落ち込んでいった」。實松さんはすり減っていく集落や揺れ続ける胸中に苦悶(くもん)した。

 「流水型ダム」で計画継続となった2005年、同盟は初めて他の住民団体と歩調をそろえた。「子や孫の代までは送らない」。調査受け入れを決め国との協定に調印した。団体名から「反対」の文字が消えた。

=連載・浮沈の果てに-城原川ダムの半世紀=国策と地方第18章

◆2017年6月6日 佐賀新聞
http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/435564?area=similar
ー城原川ダムの半世紀(3)狂った歯車ー

 ■「利水」のはしご外され

 広がる湖と山の緑が織りなす景観を青写真にしていた。城原川ダムの計画が持ち上がっていた脊振村(現神埼市脊振町)。1997年、観光開発で標高約250メートルの丘陵に整備した高取山公園はちょうどダム湖を望める立地になっていた。

 かつて村有林の収入で住民税を廃止し「税金の要らない村」として全国に知られた。94年から3期村長を務めた山口三喜男さん(82)は当時、村営宅地1坪を月額100円で貸し、15年住めば無償で払い下げする過疎対策を打ち立てるなど人口減の歯止めに心を砕いていた。ダムの水没予定地は村の玄関にあたる一等地。計画が重くのしかかり、村政の展望を描ききれずにいた。

 「ダムより上流は発展しない」「村ののど元を水没させるのか」。村議会からは激しく反対の声が上がった。必要を訴える国と板挟みの役場。水没予定地の住民の対立も膠着(こうちゃく)状態が続き、職員の間でダムの話題は「タブー」だった。山口さんはコネにも頼りながら地元に打診した。「話だけでいいから聞いてほしい」。反対派も了承し、何とか国との対話にこぎ着けた。

 高度経済成長を過ぎた90年代以降は新たな水の需要が鈍化し、国の巨大事業への逆風によって「脱ダム」のうねりも起きた。佐賀平野東部の「水がめ」として計画され、地元の理解で兆しが見えた城原川ダムにも影が忍び寄った。

 「ダムの水は不要」。01年、神埼郡や佐賀市など13市町村(当時)でつくる佐賀東部水道企業団が利水を求めない決議をした。筑後大堰(おおぜき)からの取水で都市用水などは確保され、重くのしかかる財政負担を見据えた城原川下流域の首長がノーを突き付けた。

 佐賀にも及んだ脱ダムの動きに、神埼町(当時)ではえん堤が計画されていた仁比山地区が呼応した。これまで調査を受け入れてきた住民団体が、「ダム建設反対、調査拒否」に転じた。ドミノ倒しのように疑問の声が沸き起こり町区長会の反対表明に至った。

 「造る目的はどこにあるのか」。町長だった田原英征さん(75)もダムありきで進む計画に疑問を抱いた。「流域の安全を守るなら河川改修が先」。ダム以外の道も見え始め、町議会も反対でまとまった。

■観光、過疎対策どこへ

 豊かな山の水がある脊振村は水道企業団に属していなかった。議論に加わることなく「利水」のはしごを突然外された。焦点は治水に移り、約1年半の協議を経て05年、「流水型ダム」で決着した。

 先例地の益田川ダム(島根県)を訪れた山口さんの目に映ったのは、思い描いたダムとは懸け離れた姿だった。「これがダムなのか」。計画を先延ばしされ続けた末、結論は水がたまらないダム。「ダムは犠牲の上に建つものなのに…」。観光や過疎対策が見通せない着地点に虚脱感が残った。

=連載・浮沈の果てに-城原川ダムの半世紀=国策と地方第18章

◆2017年6月7日 佐賀新聞
 http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/435859
ー城原川ダムの半世紀(4)脱ダム運動ー

◆2017年6月8日 佐賀新聞
 http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/436122
ー城原川ダムの半世紀(5)治水の必要性ー