八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

八ッ場ダム予定地の遺跡保存に関する群馬県の回答と「科学者の会」のコメント

 「ダム検証のあり方を問う科学者の会」では、今年3月5日、八ッ場ダム予定地の遺跡保存を求める要望書を群馬県に提出しました。これに対し、群馬県より「文書では回答できないが、口頭でなら答える」という説明があったため、「科学者の会」の勅使河原彰氏と川村晃生氏の二名が7月12日午後、群馬県庁を訪ね、回答を得られたとのことです。
 
 群馬県の回答要旨とこの回答に対する「科学者の会」のコメントが公表されました。八ッ場ダム予定地の遺跡に関する重要な情報ですので、お伝えします。
(対応されたのは、文化財保護課長 柿沼則久氏、同課埋蔵文化財主監 洞口正史氏、同課指導主事 笹澤泰史氏の三名。)

《要望と回答》
1.八ッ場ダム建設予定地域に、本遺跡群による文化遺産と吾妻渓谷の自然・景観遺産とを融合する形で、フィールド・ミュージアムのような文化的施策を構想・計画し、文化と自然による真の地域振興策を案出すること。

(県の回答)県が有する歴史・文化遺産の活用については、大澤知事も県のイメージアップ、観光振興という観点からも力を注いでいるところである。天明泥流下の遺跡については、ダム建設予定地以外にも広く分布しており、それを含めて研究の進展が期待される。また、これまで国交省や地元、長野原町の施策に協力してきているところであり、地元からの要望により文化財保護の活用については、今後とも協力していきたい。

2.生活関連工事については、調査事業者である公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団の発掘調査が適正に、かつ滞りなく行われるよう、関係諸機関に働きかけるとともに、調査全般にわたって同事業団の主体性を尊重すること。

(県の回答)発掘調査については、事業団が国交省の委託を受けて行っており、県教委文化財保護課と国交省、事業団三者の協定に基づき、円滑な事業実施に努めている。本地域の発掘調査も、他地域と同様に、発掘調査取り扱い基準や発掘調査積算基準等に従って行われており、特定の遺跡だからこれを行う、行わないということはない。

3.本遺跡群の歴史的・文化的意味と、吾妻渓谷の自然的・景観的価値について、広く人々に知らしめるよう努めること。

(県の回答)発掘調査の成果については、折にふれ公開し、積極的に行っている。たとえば、6月に埋蔵文化財調査事業団編集により上毛新聞社から刊行した『自然災害と考古学 -災害・復興をぐんまの遺跡から探る』の中でも、多くのページを費やして解説している。また、開催中の事業団35周年記念事業でも展示をしている。
 吾妻渓谷は名勝指定されているので、手をかける工事をする時には現状変更という手続きを国に提出し、許可を得ることになっている。その際、国からは環境や景観に配慮しなさいということになっている。吾妻渓谷は上毛かるたにも謳われている地域振興の核であり、今後ともそのつもりでいる。

4.上記について、後ほど貴職のご見解を文書にてお示しいただくこと。

(県の回答)文書ではなく口頭での回答となったのは、正式に議論したわけではないが、関係者の相談でこうなった。国は回答しないとのことだから、県の方が積極的に対応したつもりである。

 上記のような柿沼氏からの回答のあと、意見交換が行われ、以下のような文化財保護課の考え方が明らかにされた。

 以上の回答は、文化財保護課の裁量範囲内でできることを答えたものであり、財政的に も現在有限な範囲の中で、他の文化財とともに、可能な保存方法を実施するしかない。
 また、八ッ場ダムに沈むから、その遺跡が重要なのではなく、同等に重要な遺跡はたくさんある。天明の遺跡を全体としてどう考えるのかということである。
 埋蔵文化財と地域振興は別物である。それをごっちゃにした要請はおかしい。
 八ッ場ダムをつくることと、遺跡の問題は別である。要請では東宮遺跡を特別視しているが、吾妻川流域には同様の天明浅間災害遺跡が多数ある。長野原町の市街地にある町遺跡や上流の新井村も大変貴重である。東宮遺跡が天明遺跡の中でベストの遺跡かというと、そうではない。むしろ、上流にある町遺跡の方が重要という見方もある。長野原町の街並みの下に最も重要な部分が埋もれていることは周知の事実だ。
 東宮遺跡については、すでに発掘調査がほとんど終わっており、遺構も遺物も現場から持ち出してある。残っているのは石垣だけである。きっちりと記録保存をしているわけで、遺跡を保存しろと言われても無理である。
 2009年に民主党政権が八ッ場ダム中止を打ち出したので、発掘調査を中止した。東宮遺跡のほかに吾妻川から利根川流域にかけてたくさんの遺跡が残っているのだから、それ以上のことは簡単に対応できることではない。
 全体をフィールドミュージアムのような形で残すことは難しいが、中核となる施設に遺物を展示する、また回遊性のある何かを造るお手伝いはできる。県としては地元が要求していないものを造るわけにはいかない。
 なお、発掘事業とダムの本体及び関連工事との関係については、発掘事業についてはやるべきことはやり、文化財(の発掘)が遅いことを理由にさせない。ただ、本体工事の場所は遺跡とあまり関わりがない。
 一方、八ッ場ダムの完成が名勝・吾妻渓谷の景観にどの程度影響を与えるかについては、最少限にするように努力するということで、保存管理計画に沿って景観に配慮してやっていく以外にない。
 遺跡に等級を付けていることを要請書で批判しているが、これは縄文遺跡、天明時代の畑などの区別のためであって、遺跡の価値に等級を付けているわけではない。そのように何度も説明しているのに理解してもらえず批判されるのは、現場で発掘調査をしている者たちを侮辱するものである。慎んでもらいたい。
 水没予定地の発掘調査については、来年度に始めることができるように、現在準備を進めているところである。 (文責:川村晃生)

《群馬県の回答への当会のコメント》 
 今回の口頭による回答とその後の意見交換で明確になったことは、八ッ場ダム工事が国の直轄事業であり、県当局も事業を推進する方針の中で、県教育委員会としては、予定地域の遺跡について、事前に発掘調査を行い、それを記録に残すという措置をとらざるをえないという立場であった。
 意見交換の中で、「埋蔵文化財と地域振興は別物」だとか、「八ッ場ダムをつくることと、遺跡の問題は別である」などというように、埋蔵文化財である遺跡が地域振興の核の一つであること、あるいは開発と遺跡はどこでも切り離せない問題であることは、文化財保護行政を主幹する立場としては十分に認識しているにもかかわらず、あえて別物であると発言せざるをえなかったのも、上記のように県教育委員会の判断が狭められていたからだと思う。
 また、東宮遺跡を含む当該地の天明浅間災害遺跡についても、吾妻川流域には同様の天明浅間災害遺跡が多数あるとか、上流の町遺跡の方が重要だという見方もあるというような、あたかも東宮遺跡を含む当該地の天明浅間災害遺跡は、吾妻川流域にはどこにでもある遺跡だから、「記録保存」の措置もやむをえないとする趣旨の発言をしたのも、県教育委員会の選択肢に「遺跡の保存」は入っていなかったからである。
 天明浅間災害遺跡は、吾妻川流域にはどこにでもあるからこそ、その地域にとっては欠くことができない遺跡であって、そうした天明浅間災害遺跡を、東宮遺跡も含めてどう保存・活用していくか、県教育委員会の手腕が問われるところである。
 そうしたなかで、事前の発掘調査については、今後の八ッ場ダム工事の進捗状況の如何にかかわらず、従前からの取り扱い基準に従ってきちっと対処し、いわんや遺跡の種類等によって調査の精度等を変えるといった安易な方法はとらないという、県教育委員会の基本的な姿勢を改めて確認することができた。
 なお、意見交換のなかで、県教育委員会が誤解している箇所があったので、そのことだけは正しておきたい。それは「遺跡に等級をつけていることを要望書で批判しているが、これは縄文遺跡、天明時代の畑などの区別のためであって、遺跡の価値に等級をつけているわけではない」との発言であるが、3月5日付の県知事および県教育長に対する要望書では、そうした内容の要望はしていない。
2月28日付の国土交通大臣に対する要望書では、要望項目の3で「八ッ場ダムの本体工事を急ぐあまりに、遺跡をランク付けするなどして、貴重な遺跡を無用に破壊したり、調査費用や期間などを不当に縮小しないこと。」とある。
 しかし、ここでの要望は、「八ッ場ダムの本体工事を急ぐあまりに」とあるように、開発事業者に対して今後の注意を一般論として喚起したのであって、現状の八ッ場ダム工事に関連した遺跡の発掘調査において、遺跡の価値に等級(ランク)付けがなされて、安易な調査が行われているといった批判をするような内容のものでないことは、文章を読めばわかることである。現状の発掘調査においては、県教育委員会および県埋蔵文化財調査事業団が真摯に対応して行っていることは、私たちも認めているところであって、だからこそ、国土交通大臣に対する要望項目の3のような趣旨の要望は、県知事および県教育庁に対する要望書では行わなかったのである。

 本遺跡群の歴史的、文化的意味の周知については、書籍や展示という形にとどまらず、群馬県の観光PR誌や教育諸施設の副読本などで広く知らしめ、その意義あるものがダム建設によって失われつつあることを併記して、現代社会の問題として考え直す機会を与え続けるべきである。
 一方、吾妻渓谷の自然的・景観的価値についても、その歴史的意味を振り返りつつ広報する必要があるように思われる。吾妻渓谷の美しさについては、古くドイツ人の学者ベルツが1904(明治37)年に草津温泉の調査で訪れた際、「吾妻渓谷は始から終まで美しい」と言ったのをはじめ、何人もの文人墨客がこの渓谷の美しさに言及しているが、中でも1918(大正7)年と1920(大正9)年の二度にわたってこの渓谷を訪れた旅の詩人、若山牧水は、初度の折、「真実私は名には久しく聞いていたが、この吾妻の渓谷をこれほど好ましい渓とは想像しなかった」と驚嘆し、さらに再度来訪の折、
「今度聞けば(この渓谷の森林は)すべて官有林であるのだそうだ。私はどうかこの渓間の林がいつまでもいつまでもこの寂びと深みとを湛えて永久に茂っていて呉れることを心から祈るものである。ほんとに土地の有志家といはず群馬県の当局者といはず、どうか私と同じ心でこのそう広大でもない森林のために永久の愛護者となってほしいものである。」
と書いている。しかしながら、結局この渓谷の林を守るどころか、この林の一部をダムの湖底に沈めてしまおうという国のダム建設事業に群馬県の当局者が積極的に協力し推進していくというのであるから、呆れることこの上ない。泉下の牧水は、慨嘆の極み、言葉を発することもできないであろう。
 
 今般の回答で、群馬県の当局者は、環境や景観に配慮すると言っているが、吾妻渓谷の中に巨大なダムという人工的構造物を建設して景観に多大な損傷を与え、渓谷の一部を破壊して、何をどのように配慮するというのだろうか。さらに残る渓谷もダム建設後は、水量が一定化することにより洪水が岩肌を洗い流すこともなくなり、美しい岩肌をコケが覆い、草木が生い茂って、神流川・下久保ダム直下の名勝・三波石峡のように渓谷の景観美は台無しになるに違いない。
 また水の増減がなくなれば、渓谷の自然が生み出す微妙な味わいとも言うべきものも失われざるを得ない。たとえば雨後であった牧水の再度来訪の折、彼は水量の増した吾妻渓谷をこう描いている。
 「そして急に前とは趣を変えて脚もとの岩の蔭から聞えて来る流の響が独りこの静かな渓間の空に満ち渡る。…中略… そうして耳を傾けながらその響の如何によって大抵流のすがたも想像することが出来るのだ。或る所ではしゃアしゃアという様に聞え、或る所ではどうッどうッという風に響いて居る」
 ここでは木立に遮られて見えなくなった渓流のありさまを、音で想像しているのである。つまりそれは、サウンドスケープ(音の景観)と言ってよい。渓谷の水の量は、変化することで一つの新しい音の景観を作り出していくことを、私たちは知っておかねばならない。
 
 いずれにしても、牧水の言う寂びと静けさを湛えたこの渓谷の景観は、コンクリートのダムによって一挙に破壊され、名勝・吾妻渓谷の美しさは永遠に失われてしまうであろう。
 観光振興を重点政策と捉える群馬県であれば、ここにダムを造るよりも、親水域を設けるなどしてここをもっと親しみやすい環境に手直しし、多くの人々に景観を楽しんでもらった方がはるかに得策だと思われる。
 少なくとも、美しい吾妻渓谷を辿る人々にとって、眼前に立ちはだかる巨大ダムのコンクリート壁の出現は、大きな失望を与えるにちがいない。
以上

=== 転載終わり ===

【参考】3月5日に「科学者の会」が群馬県知事、および教育長に提出した要望書の全文を転載します。

2013年3月5日                          
八ッ場ダム予定地域における遺跡群の保存に関する要望書

 八ッ場ダムの建設が予定されている吾妻川流域には、約2万3000年前の浅間山の噴火にともなって、黒(くろ)斑(ふ)火山の山体が大崩壊を起こし、その岩屑(がんせつ)流が応(おう)桑(くわ)泥流と呼ばれる泥流となって、当時の河床を数十mの厚さで埋めました。この応桑泥流の堆積が、その後の吾妻川の浸食で削られて、上から順に最上位段丘面、上位段丘面、中位段丘面、下位段丘面の四つの平坦地を形成しました。そして、この平坦地は、その後、背後の急峻な山地から流出する小支谷による扇状地形、さらには山地からの崩落などが複雑に重なって、吾妻川にむかって傾く傾斜地となっています。また、この平坦地には湧水をともなう小谷川も多く、水場にも恵まれています。
 このように、吾妻川沿いの平坦地とその背後に急峻な山地をもち、豊かな水場に恵まれた箱庭的な小世界こそが、人びとが生活するうえでの好条件を提供してきたのです。それは八ッ場ダムの建設予定地という限定された一地域のなかで、縄文時代から弥生・古墳時代、古代、中世、近世、近現代までの集落の変遷とそこでの人びとの営みを系統的にたどることができるという、全国的にも類例のない貴重な遺跡群を形成しています。そうした遺跡群のなかでも、質量ともに豊富なのが縄文時代と江戸時代の天明浅間災害遺跡です。
 縄文時代でまず特筆されることは、その成立から終末まで、すべての時期の遺跡が残されており、世界史でも類をみない日本列島独自の縄文文化の発展と推移を跡づけることができるという、これだけでも第一級の遺跡群といえます。その縄文時代にあって、汎列島的に最盛期とされる中期には、吾妻川の左岸で長野原一本松遺跡と林中原Ⅱ遺跡で大規模な拠点集落が検出されています。さらに、川原畑地区でも東宮(ひがしみや)遺跡や西宮(にしみや)遺跡などの発掘調査が進めば、この地区からも縄文時代中期の拠点集落が発見される可能性が高いのです。そうしてみると、吾妻川の左岸には、約2㎞の間隔をもって拠点集落が営まれていたことになります。ということは、比較的広い一つの平坦地といくつかの狭隘な平坦地、それと背後の山地を組み合わせた範囲を生活領域として、三つの集団が日々の生業と生活を営んでいたことになります。そして、吾妻川の左岸で集落が拡大する中期に、日照時間が短く、それまで縄文人が生活の拠点としてこなかった右岸でも、新たに横壁中村遺跡で大規模な集落が形成されるようになるということは、それぞれの集団での生活領域がきちっと守られていたことを示しています。つまり縄文時代の集団が生活領域とした、そのモデルとなる遺跡群が八ッ場ダムの建設予定地には残されているということです。
 一方の天明浅間災害遺跡とは、天明3年(1783年)の浅間山の噴火にともなって発生した天明泥流の堆積物に埋もれている遺跡のことです。火山災害遺跡といえば、世界的に有名なのが南イタリアのポンペイ遺跡です。ポンペイ遺跡を有名にしたのが、西暦79年のヴェスヴィオ火山の噴火によって、古代のローマ都市がそのままの姿で埋もれていたことで、浅間山の噴火による天明泥流の堆積物に埋もれた天明浅間災害遺跡を「日本のポンペイ」と例える理由でもあります。その天明浅間災害遺跡のなかでも、とりわけ八ッ場ダムの建設予定地の遺跡には、ほかの遺跡にはない二つの大きな特徴があります。
 一つは、八ッ場ダムの建設予定地では、吾妻渓谷の入り口近くで泥流が一旦せき止められ、勢いを弱めて逆流するように堆積物が埋まったことから、遺構が泥流に押し流されることなく、現状のまま埋もれているということです。そして、もう一つは、当該地が湧水に恵まれていることから、普通の遺跡では腐朽してしまう有機質の遺構・遺物が良好に保存されているということです。たとえば東宮遺跡では、現在までに主屋建物7棟、酒蔵1棟など、全部で15棟の建物が調査されていますが、当時の礎石に据えられた土台や建築部材だけでなく、主屋の1号と5号建物、それと1号建物に付属する4号建物からは板の間まで腐朽せずに残されていました。また、これらの遺構にともなって、陶磁器・漆器・団扇・下駄・煙管などの生活用具だけでなく、木栓・蚕繭・麻の実など酒造業や養蚕、麻栽培に関する遺物などが出土しています。これらの遺構・遺物からは、当時の川原畑地区では酒造業や養蚕、麻栽培などがおこなわれ、活気にあふれた豊かな村であったことが明らかとなり、江戸時代の山村は貧しかったという、それまでの常識を覆す発見として注目されています。
 さらに、久々(くく)戸(ど)遺跡などの被災した田畑では、大噴火の前兆である軽石や灰が降るなかでも、農事暦にのっとった農作業が続けられていただけでなく、人びとは災害直後から田畑を造り直すなど懸命に復興に努めていたことを明らかにしています。こうした天明浅間災害遺跡は、2011年3月11日の東日本大震災を経験し、その復興に努めている今だからこそ、私たちに学ぶべき多くのものを残してくれています。
 このように、八ッ場ダム予定地域は貴重な遺跡の宝庫であります。こうした文化遺産に、吾妻渓谷などの自然遺産を加えれば、当該地域一帯は優れたフィールド・ミュージアム(野外博物館)となることは間違いなく、ダムに頼らない真の地域振興を図ることができるものと考えます。
 以上の点から、別紙のことを要望いたします。

ダム検証のあり方を問う科学者の会
 代表 今本 博健(京都大学名誉教授)  
代表 川村 晃生(慶応義塾大学名誉教授)
 呼びかけ人 宇沢弘文(東京大学名誉教授)
       牛山積(早稲田大学名誉教授)
       大熊孝(新潟大学名誉教授)
       奥西一夫(京都大学名誉教授)
       関良基(拓殖大学准教授)
       冨永靖徳(お茶の水女子大学名誉教授)
       西薗大実(群馬大学教授)
       原科幸彦(千葉商科大学教授)
       湯浅欽史(元都立大学教授)
                         賛同者128名

    記

1.八ッ場ダム建設予定地域に、本遺跡群による文化遺産と吾妻渓谷の自然・景観遺産とを融合する形で、フィールド・ミュージアムのような文化的施策を構想・計画し、文化と自然による真の地域振興策を案出すること。

2.生活関連工事については、調査事業者である公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団の発掘調査が適正に、かつ滞りなく行われるよう、関係諸機関に働きかけるとともに、調査全般にわたって同事業団の主体性を尊重すること。

3.本遺跡群の歴史的・文化的意味と、吾妻渓谷の自然的・景観的価値について、広く人々に知らしめるよう努めること。

4.上記について、後ほど貴職のご見解を文書にてお示しいただくこと。
                      
賛同人128名(2013年3月5日現在)
青山貞一(東京都市大学教授名誉教授・環境政策)、浅見和彦(成蹊大学・環境日本学)、足立久男(東京農業大学・地質学)、池田こみち(環境総合研究所・環境政策)、泉桂子(都留文科大学・森林計画学)、礒野弥生(東京経済大学・環境法)、市野和夫(元愛知大学・生物・地域環境)、井野博満(東京大学名誉教授・金属材料学)、井上祥一郎(国土問題研究会・流域環境修復実学)、井上真(東京大学・森林社会学)、岩松研吉郎(慶応大学名誉教授・日本文学)、上田邦夫(滋賀県立大学・土壌学)、上野鉄男(国土問題研究会・河川工学)、植村振作(元大阪大学・応用物理学)、宇民正(元和歌山大学・河川防災)、大塚泰介(琵琶湖博物館・水産生物学)、大野智彦(阪南大学・河川政策)、岡本尚(元横浜市立大学・植物生理学)、荻野芳彦(大阪府立大学名誉教授・農業水利)、奥田進一(拓殖大学・民法・環境法)、小野有五(北海道大学名誉教授・地理学)、風見正三(宮城大学・地域計画)、春日正伸(山梨大学名誉教授・応用物理学)、片岡直樹(東京経済大学・環境法)、加藤久和(帝京大学・国際関係論)、川瀬光義(京都府立大学・公共政策学)、神田順司(慶応大学・ドイツ思想史)、北尾邦伸(京都学園大学・森林政策学)、鬼頭秀一(東京大学・環境倫理学)、小島剛(京都大学・社会学)、小島望(川口短期大学・ビジネス実務学)、小島延夫(立教大学・法学)、小貫雅男(滋賀県立大学名誉教授・地域研究)、五味渕典嗣(大妻女子大学・日本語文学)、紺谷吉弘(国土問題研究会・地質学)、坂口洋一(上智大学名誉教授・環境法)、坂巻幸雄(元通商産業省地質調査所・地質学)、佐々木克之(元中央水産研究所・海洋物質循環学)、椎名慎太郎(山梨学院大学名誉教授・行政法学)、志岐常正(京都大学名誉教授・防災環境地質学)、柴田裕希 (滋賀県立大・環境政策)、嶋津暉之(元東京都環境科学研究所・衛生工学)、島本美保子(法政大学・経済学)、関耕平(島根大学・地方財政論)、瀬戸昌之(東京農工大学名誉教授・環境学)、瀬野忠愛(静岡大学・環境工学)、瀬山士郎(群馬大学名誉教授・数学)、高木竜輔(いわき明星大学・社会学)、高田直俊(大阪市立大学名誉教授・土木工学)、鷹取敦(環境総合研究所・環境予測)、高野庸(群馬大学名誉教授・物理学)、高橋満(東京大学名誉教授・経済学)、滝沢俊治(群馬大学名誉教授・物理学)、竹内智(山梨大学・環境科学)、竹本弘幸(拓殖大学・地質学)、田中学(東京大学名誉教授・農業経済学)、田中哲夫(兵庫県立大学・河川生態学)、辻野兼範(佐鳴湖シジミプロジェクト協議会・地学)、辻本利雄(明治薬科大学・基礎化学)、津田敏秀(岡山大学・環境医学)、勅使河原彰(文化財保存全国協議会・考古学)、寺井久慈(元中部大学・陸水学)、寺尾光身(名古屋工業大学名誉教授・応用物理学)、寺田武彦(龍谷大学・法学)、暉峻淑子(埼玉大学名誉教授・経済学)、寺西俊一(一橋大学・環境経済学)、戸田三津夫(静岡大学・化学)、富山和子(日本福祉大学客員教授・環境社会学)、直野敦(東京大学名誉教授・言語学)、中川鮮(元京都大学防災研究所・砂防工学)、中川武夫(中京大学・公衆衛生)、中下裕子(中央大学・法学)、中嶋信(徳島大学・地域経済論)、中根周歩(広島大学・生態学)、中村徳三(国土問題研究会・土木)、永橋為介(立命館大学・コミュニティデザイン論)、中村剛次郎(横浜国立大学・国際社会科学)、中村庄八(地学団体研究会・地質学)、中山俊雄(応用地質研究会・応用地質)、中山弘正(元明治学院大学学院長・経済学)、新津隆士(創価大学・有機分析化学)、西川伸一(明治大学・政治学)、錦澤滋雄(東京工業大学・環境影響評価・環境政策)、野田浩二(武蔵野大学・経済学)、野村伸一(慶応大学・東アジア民族文化)、濱田篤信(霞ヶ浦生態系研究所・水圏生態学)、畑明郎(元大阪市立大学・環境影響評価・環境政策)、深澤英隆(一橋大学・宗教学)、橋山禮治郎(千葉商科大学・公共計画)、藤原猛爾(立命館大学・法学)、淵野雄二郎(東京農工大学・農業経済学)、舟山俊明(慶応大学・教育学)、古沢広祐(國學院大学・環境社会経済学)、細川弘明(京都精華大学・文化人類学)、保母武彦(島根大学名誉教授・経済学)、町村敬志(一橋大学・社会学)、松田智(静岡大学・化学環境工学)、松本武祝(東京大学・農業史)、松本泰子(京都大学・環境政策)、三俣延子(同志社大学・経済学)、三俣学(兵庫県立大学・経済学)、宮入興一(愛知大学・経済学)、宮内泰介(北海道大学・環境社会学)、宮川潤次(静岡文化芸術大学・建築・環境デザイン)、宮本憲一(元滋賀大学学長・経済学)、室田武(同志社大学・経済学)、村上勝彦(元東京経済大学学長・経済史)、村上興正(京都精華大学・保全生態学)、村上修一(滋賀県立大学・造園学)、村上哲生(名古屋女子大学・陸水学)、村松昭夫(京都大学・法学)、村山武彦(早稲田大学・社会工学)、森聰明(元弘前大学・触媒化学)、森川雅博(お茶の水女子大学・物理学)、森下英治(愛知学院大学・環境政策)、柳下登(東京農工大学名誉教授・農業生物学)、安田利枝(嘉悦大学・政治学)、矢吹晋(横浜市立大学名誉教授・中国経済論)、山口幸夫(原子力資料情報室・物理学)、山村恒年(元神戸大学・法学)、柳沢遊(慶応大学・経済史)、山本早苗(富士常葉大学・社会学)、吉川成美(早稲田大学・農業経済学)、吉田充夫(東京工業大学・環境・廃棄物)、除本理史(大阪市立大学 環境経済学)、渡邉拓美(地学団体研究会・地質学)、和田秀樹(静岡大学・地球化学)、和田喜彦(同志社大学・経済学)