八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

王湯の閉館

 川原湯温泉街のシンボルとして親しまれてきた共同湯・王湯が昨日で閉館になりました。
 王湯は川原湯温泉の「元の湯」が湧き出ている泉源に隣接しています。
 長野原町誌によれば、一般に共同湯のことを「大湯」といい、川原湯の大湯は源頼朝入浴の伝説があることから、「王湯」という字があてられたということです。
  
王湯 (2)shuku

 八ッ場ダムの水没予定地にある王湯は、3月末に閉鎖となる予定でしたが、代替地にオープンする王湯会館と周辺の工事が遅れているため、閉館が3カ月延びました。この間、多くの観光客が王湯を訪れ、名残を惜しみました。
 特に6月に入ってからは休日は大賑わいで、小さな湯船に人が入りきれないほどでした。一昨日は最後の日曜日とあって、一日の入場者数が334人と、過去最高の入場者数を記録したそうです。

王湯と旅行客 (2)shuku
 

 王湯最後の日shuku 最終日の昨日は月曜日でしたが、さすがに朝10時から駐車場はいっぱいでした。最後という報道を見て初めて来たという方や、長年のファンで今日は一日三回入ろうとお弁当持ちで来たという方のほか、大きな機材を抱えたマスコミ関係者も見られました。

王湯の貼り紙 (3)shuku 玄関脇に昨日はなかった貼り紙がありました。
 折り目に沿って手書きで丁寧にしたためられています。
「御礼
 長年に渡り、王湯をご利用頂き、またご愛顧賜りまして、誠に有難うございました。
 本日午後6時をもちまして、完全に閉館致します。
 地元住民にとっても特別な思い入れのある「王湯」が閉館するのはとても寂しい気持ちで一杯です。
 今後は代替地に於いて新しい「王湯」を七月五日(土曜日)午後一時より新規開館致します。
 相変わらずのご愛顧をお願い申し上げます。
                温泉利用組合一同」

コンクールの記念碑 (2)shuku 王湯を見下ろす背後の山には、昭和32年に川原湯温泉が全国温泉コンクールでベストテンに入った(八位)ことを記念して建てられた平和の白鳩の塔があります。
 戦争直後、吾妻線が客車を走らせるようになり、昭和32年当時は八ッ場ダム計画も吾妻川の酸性問題によって一旦頓挫し、川原湯温泉が最盛期を迎えた時期でした。
 川原湯温泉街の隆盛によって鄙びた共同湯だった王湯が観光用に改築され、現在の建物ができたのは昭和42年のことです。
 八ッ場ダム計画が本格的に動き出したのが昭和40年、そしてダム事業費が最初に計上されたのが昭和42年です。川原湯の人々にとって、水没予定地の王湯の改築は八ッ場ダム計画をはねのける意思表示でもあったのでしょう。
 集団的自衛権の閣議決定を控えた昨日、王湯が閉館になったのも歴史の巡り合わせだろうか、という人もいます。
 
 王湯の湯船shuku
王湯の湯口 (2)shuku 王湯の湯船は簡素な造りですが、こんこんと湧き出る川原湯の元の湯はこれまで絶えることなく湯船に注がれてきました。打ち身、捻挫、胃腸病に効くといわれる柔らかな湯は、日頃の疲れが取れると、根強いファンがいます。
 現在、代替地に再建中の新・川原湯温泉には、新湯(八ッ場ダム事業によりボーリングで掘り当て、ポンプアップ)を引き湯しています。

王湯の通路shuku 内湯と露天風呂をつなぐ通路からは、ケヤキやカツラ、フサザクラなど、吾妻渓谷と同じ樹種がはえる森が見渡せました。谷から吹いてくる緑の風が温泉でほてった体を冷やしてくれました。

王湯の広間shuku 休憩所の大広間は、川原湯地区の公民館としても利用され、かつてはここで八ッ場ダムの反対期成同盟の集会が開かれました。
 八ッ場あしたの会にゆかりのある加藤登紀子さん、澤地久枝さん、永六輔さんが川原湯温泉を訪ねた時、旅館を経営する方々と懇談したのもこの大広間でした。永さんが突然立ち上がって、「相撲甚句」を朗々と歌い上げた時は、皆しんとして聞き入ったものです。

 観光客が帰った後、毎日地元の方が清掃して大切に管理してきた王湯も長い歴史に幕を閉じ、いずれ国交省によって解体されます。

 王湯と共に、川原湯温泉を見守ってきた川原湯神社は今も同じ場所にありますが、この神社もいずれは移転することになります。
川原湯神社shuku

 関連記事を転載します。 

◆2014年6月28日 朝日新聞社会面
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140628-00000024-asahi-soci

 -ダムに沈む温泉地、最後のにぎわい 今秋にも八ツ場着工ー

 山あいの温泉施設が、最後のにぎわいをみせている。八ツ場(やんば)ダムができれば湖に沈む「川原湯温泉」(群馬県長野原町)の共同浴場「王湯(おうゆ)」。60年以上もダム問題に翻弄(ほんろう)された温泉街のシンボルだったが、30日で長い歴史の幕を閉じる。いったんは建設が白紙に戻されたダムは今秋にも本体が着工され、2019年度に完成する見通しだ。

 28日、雨の中で白い湯気を上げる「王湯」。品川や横浜、熊谷など、車のナンバーは様々だ。10人も入ればいっぱいの内湯を、入れ替わり人が埋めていた。

 閉館を知って訪れた長野市の会社員片桐卓也さん(28)は「風情があって、いい湯でした。なくなるのはもったいない」。来訪は5年ぶり。「お風呂から見えた建物がいまは取り壊され、『なくなってしまうんだな』と寂しかったです」。名残惜しそうに、風景を写真に収めた。

 閉館が近づいて入湯者が増えた。今月は約2千人と、昨年のほぼ倍という。

 吾妻(あがつま)渓谷の底を縫うように走るJR吾妻線。川原湯温泉駅から1キロほどの上り坂に沿って温泉街はある。王湯は、源頼朝に発見されたとの言い伝えがあり、毎年1月の大寒の日、ふんどし姿の男たちが湯をかけ合う奇祭「湯かけ祭り」の舞台にもなってきた。

 昭和の最盛期、温泉街には20軒を超す旅館のほか、土産物屋、飲食店が急斜面にへばりつくようにひしめいていた。川原湯温泉組合の職員金子典子さん(57)は「旅館の明かりで照らされた通りは、浴衣姿のお客さんでいっぱい。それは華やかでした」と振り返る。

 ダムができれば温泉街は湖に沈む。すでにほとんどの建物は取り壊された。その中に、王湯の源泉から湯を引き、唯一、今も宿泊客を受け入れている「ふれあいの宿 ゆうあい」がある。ダム計画が浮上したのは1952年。社長の久保田賢治さん(79)は「みんなでスクラムを組んで反対した。建設省の役人が来るとバケツを鳴らし、水をまいて追い返したよ」。

 公民館を兼ねた王湯では、反対集会が頻繁に開かれた。だが、国による切り崩しで「ひとり、ふたりと抜けていって」。隣同士や親子でも賛否が割れた。85年、町は生活再建と引き換えに計画を受け入れた。

 1軒、また1軒と旅館が消えていった。久保田さんも家族と話し合い、移転を決めた。それでも、「なるべく長く」と、現在地での営業を続けている。

 「少子化でこれ以上、水は必要ないでしょ」。数年前、東京から来た宿泊客にかけられた言葉が忘れられない。国は反対住民に、治水・利水のためダムが必要と受け入れを迫った。久保田さんは「下流のため、と苦しみながら決断したのに、都会の人は忘れてしまっている」と悔しそうだ。

◆2014年6月29日 読売新聞群馬版
 http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/news/20140628-OYTNT50377.html
 -王湯会館あす終了 高台で来月再開ー

 長野原町の八ッ場やんばダムの建設に伴って水没する川原湯温泉の共同浴場「王湯会館」が今月末、営業を終了し、47年の歴史の幕を閉じる。新たな共同浴場が7月5日、約30メートル高台の代替地で開業するが、地元では、伝統の奇祭「湯かけ祭り」の会場として長く親しまれてきただけに、名残を惜しむ声が出ている。

 川原湯温泉は1193年(建久4年)に源頼朝が発見したと伝えられる由緒ある温泉で、現在の王湯会館は1967年に建てられた。男女の内風呂(各約5平方メートル)と露天風呂(各約12平方メートル)があり、今も毎月1500人前後が利用している。

 自宅に風呂がなかった時代、共同浴場は生活の一部だった。だが、ダムの関連工事が進む中、ほかに二つあった共同浴場は2011年10月と13年6月に相次いで営業を終え、共同浴場は王湯会館だけとなっていた。1日おきに湯につかりに来ている近くの金子みつさん(85)は「通い慣れた浴場がなくなるのは寂しい」と話した。

 八ッ場ダムは今年10月頃に本体工事が始まる予定で、王湯会館は水没前に取り壊される。新たな共同浴場は男女の内風呂と露天風呂を備えた2階建て和風建築で、延べ床面積は約335平方メートルと、約100平方メートル広くなる。名称も「湯かけ祭り」の会場もそのまま引き継がれる。

 川原湯温泉協会長の樋田省三さん(49)は「寂しさもあるが、温泉街のシンボルが生まれ変わり、川原湯温泉の新たな出発となる。川原湯らしさを少しずつ出していきたい」と話している。

◆2014年6月30日 東京新聞群馬版
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20140630/CK2014063002000152.html

ー惜別の湯けむり 川原湯温泉の「王湯」きょう閉館ー

 
長野原町の八ッ場(やんば)ダム建設工事に伴い、「湯かけ祭り」で知られる同町川原湯の川原湯温泉にある共同浴場「王湯」が三十日で閉館する。将来、温泉街はダム湖の底に沈む。王湯は温泉街のシンボルだっただけに、地元住民や観光客の間で惜しむ声が広まっている。 (山岸隆)

 湯かけ祭りは約四百年前から続く奇祭。厳寒の冬の未明、ふんどし姿の男たちが王湯を舞台に湯を掛け合う。

 王湯は近くの高台の代替地に内湯と露天風呂がある「王湯会館」として移設され、七月五日午後一時に開業する。湯かけ祭りは来年以降、同会館前の広場が会場となる。

 現在の王湯の営業は三十日午後六時まで。地元の美才治章区長(67)は「今の王湯は子どものころから慣れ親しんできた施設なので、寂しい思いも強い。露天風呂からダム湖を見ながら入浴できる新施設も楽しみで、多くの観光客に来てもらいたい」と話している。

 八ッ場ダムは、二〇一九年度の完成を目標に本体工事に向けた関連工事や住民の生活再建事業が進み、八月にダム本体工事の落札者を決定し、十月にも着工する見通し。二十五日には太田昭宏国土交通相が就任後初めて建設予定地を視察した。

◆2014年7月1日 読売新聞群馬版
http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/news/20140630-OYTNT50486.html?from=tw

ー「寂しいね」 王湯会館閉館ー

 八ッ場ダム(長野原町)の建設に伴って水没する川原湯温泉の共同浴場「王湯会館」(1967年建設)が30日、多くのファンに惜しまれながら閉館した。

 この日は、朝から167人の入浴客が訪れた。新潟県長岡市の高野敦雄さん(60)は「50年以上前から通っているが、建物の造りも、湯につかりながら見る渓谷美も素晴らしかった。閉館は残念」と話した。

 営業は午後6時に終わり、川原湯温泉協会長の樋田省三さん(49)と川原湯区長の美才治章さん(67)が、正面入り口に掲げられた「王湯」の看板を外した。樋田さんらは「やっぱり寂しいね」と語り合い、入浴客が記念写真を撮影していた。

 新しい王湯会館は約30メートル高台の代替地で、5日午後1時にオープンする。初日は、先着250人に手ぬぐいや入浴剤などの記念品が配られる。

◆2014年7月1日 毎日新聞群馬版
ー王湯:最後の営業 「閉館、とても寂しい」 多くのファンに愛され /群馬ー
http://mainichi.jp/area/gunma/news/20140701ddlk10040191000c.html

 「地元住民にとって特別な思い入れのある『王湯』が閉館するのはとても淋しい気持ちでいっぱいです」

 30日に営業を終了した長野原町川原湯温泉の共同浴場「王湯」の前に、お礼文が張られていた。800年以上前に源頼朝が発見したとされる名湯。吾妻峡の中にひっそりとたたずむ川原湯温泉の象徴は、地元住民だけでなく県内外の多くのファンからも愛されてきた。

 八ッ場ダムの湖底に沈むことになり、最後の営業日となった30日は167人が訪れた。受付の女性は「閉館が決まってからは、地元だけでなく県外からのお客さんも一気に増えました」と振り返る。

 子供のころから訪れているという新潟県長岡市の高野敦雄さん(60)は「泉質の良さはもちろん、外を見れば、季節ごとに新緑や紅葉の森を見ることができ、情緒にあふれた温泉だった。本当に名残惜しい」とシャッターを切った。

 東京都調布市の自営業、柳沢英樹さん(42)は片道3時間以上かけて3カ月に1度のペースで通い続けた。「来る度に温泉街の風景がどんどん変わり、スピードの速さに驚いた。閉館は残念だが、新しい場所でどんな再スタートを切るのか、期待したい部分もある」

 午後6時、最後の客が帰り、半世紀近い浴場の歴史は幕を閉じた。入り口の看板を外した地元・川原湯区の美才治章区長(67)が、ぽつりとつぶやいた。「子供のころから慣れ親しんだ場所がなくなるのはやっぱり寂しいね」【角田直哉】