八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

元住民からのメッセージ(2009年5月14日)

現状レポート

現地の状況

(更新日:2009年5月14日)

元住民からのメッセージ(2009年5月14日)

八ッ場ダム水没予定地、川原湯温泉の元住民よりご寄稿いただきましたので掲載します。

著者の竹田さんは、今から三年前の平成18年、八ッ場ダムの水没予定地、川原湯温泉街をあとにして、下流の町に移住されました。川原湯にお住まいのときは、旅館『川原湯館』をいとなみ、地元住民による八ッ場ダム建設反対川原湯期成同盟副委員長、八ッ場ダム対策川原湯期成同盟委員長などの要職を務められました。

古里をあとにして

竹田博栄  

 吾妻郡の八ッ場ダムは、話が始まってから50数年がたった。今では過去のことを知る人も少なくなった。

 水没世帯340戸、水没人口1170人の大半は、遅々として進まぬ代替地の造成や現地での生活再建に見切りをつけ、後ろ髪を引かれる思いで住み慣れたふるさとをあとにしている。

 八ッ場ダムはどうしてこんなに色々な問題を抱えているのだろうか。端的に言えば、あってもなくてもよいダムだったのではなかろうか。だから完成の目安はあっても、期限がないのだ。
 そもそも八ッ場ダムは、昭和22年に襲来したカスリーン台風に端を発し、昭和22年に主に洪水調節を目的に構想された。昭和27年といえば終戦まもない混乱期で、日の丸、君が代の匂いがとれなかった時代である。
 利根川水系で川幅が一番狭いところ、そこが吾妻渓谷の八ッ場であった。水さえ貯めればよい、今のように環境アセスメントもなかった時代、地元住民の意見など聞く気もなかったのであろう。対話のないやり方、住民無視のやり方に腹を立てた住民は反対期成同盟を立ち上げ、徹底抗戦に臨んだ。反対の理由として、険しい地形で犠牲を伴わない再建はできない、近くに代替地が見あたらない、過疎化で町がすたれる、などが主な理由であったが、現実にそのようなことになった。

 当初は猛烈な反対運動が展開されたが、群馬県の清水知事(1976~1991年)は、水没住民の生活再建が第一義だとして、群馬県独自の生活再建案が作成された。住民はあらゆる可能性を模索しながら166項目からなる生活再建案を見直し、修正を加え、新たに32項目の要望を追加し、実に6年の歳月をかけ、住民一体となって再建案を承認した。

 この再建案が確実に実行されれば、現在よりも便利で近代的な新川原湯温泉が誕生し、ダム湖を中心とした一大観光地として脚光を浴び、その中で安定した生活ができるものと、住民はそう信じ、希望と期待をもち続けてきた。しかし、いつまでたっても生活再建事業、代替地造成は実現しなかった。いったい我々が夜を徹して作ったあの生活再建計画は何だったのだろうか。長い間の不安定で抑圧された生活、やり場のない憤りも、いつしか諦めに変わっていった。
 こうして50有余年、住む家も心もぼろぼろになりながら、耐えに耐えて過ごしてきた。
 八ッ場は急峻な土地で、周辺に宅地を造るような場所はなかったが、強引にいわゆる「現地再建ずり上がり方式」がとられた。八ッ場ダムのある所長が、「こんな大きなところで現地再建など聞いたことがない」と言っていたが、起業者側では誰もが内心は現地再建は無理だと思っていたようだ。ずり上がり方式による代替地は、山を崩し、谷を埋めて造らねばならない。それは想像以上の難工事だった。
 八ッ場では代替地の第一期分譲がようやく終わり、第二期分譲が始まろうとしている。川原湯の代替地では、第三期分譲地区に温泉街が移転することになっているが、ここはまだ進んでいない。
 年々進む高齢化、不況による物価の高騰、不安定な社会情勢、建物や諸設備の老朽化、さらに転職や就職、また学校の転校や進学など、個人個人によって事情は様々であろうが、自分の生活は自分で守り、築いてゆかなければならない。八ッ場では自分たちの将来設計、生活設計を立てることもままならなかった。こうした現状から脱皮するには、八ッ場を去らなければならない。苦渋の選択に至るまでの心の葛藤は計り知れないものがあった。

 代替地造成はなぜこれほど遅れたのだろうか。川原湯の造成地(打越地区)となった場所は、国有林の占める割合が大きかったが、代替地へ行く工事用進入路の大半は民有地だ。地主が承諾しなければ道路ができなかった。地元住民は「立ち入り調査の協定」、「用地補償調査の協定」を結び、いちおうダム建設を認めたが、それは総論賛成、各論反対で、起業者のやり方には反発があった。それが代替地造成の遅れにつながったのだ。
 住民の中には、代替地の様子を見て、よければ現地に残ろう、悪ければ転出しようと思っていた人もいたようだ。けれども予想したより環境が悪く、さらに道路整備が遅れ、いつになったら全線開通するのか予測がつかないからと、転出に踏み切った人もだいぶいた。
 ダム建設に当たっては、水没予定地に住む住民の代替地をまず用意し、その後の生活再建を実現してから事業を進めるのが本当ではないだろうか。一方的に調査、調査で事業を進め、住民は置いてきぼりだった。なぜ最初に住民のことを考えなかったのか。過去のことではあるが、折があればただしてみたいと思っている。

 山村の集落というものは、数十戸から数百戸の単位で形成されている場合が多い。昔の落人ではないが、親兄弟を軸に親類縁者で形づくられている集落もある。住民は集落の殻の中に閉じこもり、部外者を嫌う傾向がある。
 もともと川原湯は40戸ほどの世帯しか住んでいなかったという。太平洋戦争のとき、草津白根の硫黄と六合村の鉄鉱石を運搬するため、渋川から突貫工事で鉄道を敷設したときの工事関係者の中には、川原湯の周辺に残った人もいた。鉄道は最初は貨物専用であったが、戦後は観光路線となったため、山中の素朴ないで湯、川原湯温泉は脚光を浴びるようになり、人口が増えていった。
 川原湯は小さな集落ながら、温泉を抱えた観光地である。旅館主は一匹狼的な人が多く、商店、勤め人、農家、炭焼き、職人など様々な職種が混在していたから、話がなかなかまとまらず、逆に一方的に有力者によって物事を決められてしまうことも多々あった。このような地元の事情をよく調べもせず、ダムさえ造ればよしとするやり方が悲劇を生んだ。

 こうした悲劇は八ッ場で終止符を打ちたい。われわれは「生活再建」という言葉に翻弄され続けた。下流都県のためという名目で、水没関係住民が犠牲になるダム行政は根本的に見直されることを、この際、熱望する。
 安住の地を求めてふるさとをあとにしたが、ダム問題から解放されて気がついてみれば、もう八十路である。この安らかな土地に、あと何年住めるだろうか。