石木ダムの予定地を歩く 過酷な歴史、顧みぬ権力(朝日新聞長崎版)

 石木ダムの問題を取材するようになった記者がこの一年で学んだこと、感じたことが大晦日の紙面に掲載されています。
 ダム行政はダム建設に有利な法整備が進み、ダムに反対する水没住民や流域住民は、徒手空拳で行政に対峙しなければなりません。八ッ場ダムを始め、全国のダム予定地で闘いに疲れた住民がダムを受け入れざるを得ない状況に追い込まれる中、長崎県の石木ダム予定地では、住民の抵抗が半世紀も続き、地域の団結が維持されています。記者が伝えるこの土地の歴史に、その理由の一端があるのかもしれません。

◆2019年12月31日 朝日新聞長崎版
https://digital.asahi.com/articles/ASMDV0PN2MDTTOLB010.html?iref=pc_ss_date
ー石木ダムの予定地を歩く 過酷な歴史、顧みぬ権力ー

  石木ダム(川棚町)本体が築かれる川岸に、住民が「ダム小屋」と呼ぶトタンぶきのあばらやがある。工事を監視するため、水没予定の川原(こうばる)集落の住民が44年前に建てた。

 師走のすきま風が吹き込む畳の間で、住民の松本マツさん(93)と岩永サカエさん(79)が、こたつで暖をとっていた。

 台風19号の福島の被災者が避難所で年越しする見込みだと伝えるテレビに「かわいそかねえ」。二人がそろってつぶやいた。

 その高齢で、酷暑の夏も厳冬も、エアコンなしで長年ここで闘っているお二人も……。そう思った。

 感情論だけでダム事業の是非を論じようとは思わない。ただ、地域の歴史を知ることには意味がある。

 松本さんは戦時中、女子挺身(ていしん)隊として、ダム小屋近くの魚雷工場で働いた。

 戦時中、川棚町の海沿いに日本一の規模の魚雷工場、川棚海軍工廠(こうしょう)が築かれたが、空襲を恐れ、川原を含む山あいに疎開移転した。このとき、新工場群の建設のために田畑はつぶされた。

 今年5月、川原の土地はダム建設のために強制収用された末に今秋、国のものになった。世代をまたいで2度目の強制収用だ。

 敗戦で戻ってきた土地を数年~数十年かけて田に戻すと、ほどなく、県は機動隊を動員して強制測量に乗り出す。こうした過酷な歴史を、この秋、取材を通じて初めて知った。

 県は当初、適地を求めて県北の各所をあたった。だが、対話を重んじたという久保勘一・元知事でさえ、79年6月に住民に協力要請する際、戦時中の苦難に言及した形跡はない。

 それ以降、巨大な権力をもつがゆえの慎みを、県政に見いだすことは難しい。コストの比較だけで、ダム案以外の代替案を切り捨てるのは正当だろうか?

 建設現場で座り込み、抗議する住民に話を聞いていた記者にも、県職員はカメラをぶしつけに向けて来た。名乗っても自身は名乗らず、撮り続ける。レンズの奥に「従わない者」を監視する冷たい目を見た。

 歴史への謙虚さと、情理を欠いた役所。精神的に追い込まれながらも、遠方の台風の被災者に胸を痛める住民。鮮やかな対比のうちに、私の一年が暮れる。(原口晋也)