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学習会「ダム予定地の現状と長野原町の将来」(2008/12/13)(1)

現状レポート

現地の状況

(更新日:2009年3月29日)

学習会「ダム予定地の現状と長野原町の将来」(2008/12/13)(1)

(2008/12/13、於:エコとしま)

 テープ起こし原稿
 【登壇者】 牧山明氏(長野原町会議員)
大和田一紘氏(財政学者)
 【コーディネーター】 前田和男
(八ッ場あしたの会運営委員、作家、編集者)
 【掲載内容】 (1) 牧山明氏のお話
(2) (3) (4) 大和田一紘氏のお話
(5) (6) 座談会
文中のスライドグラフ、論点作成者: 大和田一紘氏

牧山: 牧山です。町をあげて議会も八ッ場ダムを推進している長野原町で、一人違う方を向いて反対される人たちの集会に出ているのは一体どんな奴だと思われるかもしれませんので、このダムに関わるまでの経緯を少しお話しさせてもらいます。

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私が生まれたのは、八ッ場地域から12キロぐらい南西、応桑(おうくわ)地区の狩宿(かりやど)という、非常に辺鄙なところで、集落の中心から1キロぐらい離れています。私は1957年生まれですけれど、小学校1年くらいまで電気がなくて灯油のランプで灯りをとる生活でした。中学を卒業してから約10年間家を離れていたのですが、高校時代は渋川市に3年間住みました。なんせ山の中から渋川に移ったわけで、今でいえば長野原町から新宿の西口にいきなり暮らし始めたという感覚で、ものすごいカルチャーショックでした。

高校を卒業する頃に、普通は将来何で食べようって考えるのだと思うんですが、私の家は牧場をやっていまして、いずれ牧場に入ると。どう回り道をしてそこにたどり着くか、ということくらいしか考えていませんでした。とりあえず獣医になりたいと思い、獣医学科を受けたんですが全滅しまして、南浦和にアパートを借りて東京の予備校に8ヶ月くらい通いました。当時満員の赤羽線に乗って毎日通った覚えがあります。

結局、大学受験はやめて、東京の多摩市に3年住み、農林水産省直轄の農業者大学校に入りました。非常にユニークで、人間を点数で評価しないという方針の学校、試験がほとんどありませんし、通知表もなかったんです。だから学生にとっては自由に3年間を過ごせる環境でした。最終的にはアメリカで2年農業研修があり、その後(ふるさとに)帰ったわけですが、東京での3年間とアメリカで過ごした2年間の経験が、今、農協の理事や議員をやる上で役立っています。

初めてダムに接したのが農業大学2年のときです。多摩市ですから実習場がありません。その代わりに半年間、全国の先進農家で実習させるというプログラムがあり、岩手県の田野畑村の農家に実習に入ったんです。

ちょうど岩手では当時、牛乳の産直運動がさかんな農協があり、それがたまたま湯田町にあったんです。湯田町はそのころ(1979年)、湯田ダムができていた町です。確か錦秋湖という美しい名前がついているんです。ところがそのとき電車に乗っていって見たのは、水のない錦秋湖でした。その年、東北は大干ばつで湖底が見えて、道路や田んぼのあぜだったような跡が泥をかぶったような状態で見えまして、これは悲惨だなぁと思いました。

地元の農業改良復旧所でいろいろ話を聞いたら、建設中の湯田町は3万人くらい人口があったそうです。ところがダムができた途端、8000人を切るまで落ち込んでしまった。最盛期にはこんな山奥でもキャバレーが3軒あった、ところがダムができると農業は破壊されたし、町は寂れた、と。その時から、ダムを造ると町は寂れるということが頭の中にあります。

具体的に八ッ場ダムに関わるようになったのは、私が34歳のとき、吾妻農協長野原支店の理事になったときです。水没地区の集落座談会にも何度か出させてもらって、やっぱりダムの問題が大きいことを聞かされて、驚くことばかりでした。私の親父が長年ダムの反対運動の仲間と一緒にいろんな活動をやっていた関係で、全然面識のない人でも、「牧山信ちゃんの息子かい」って、割と簡単にその地域に入れたことは、私にとって幸運だったと思います。

前置きはこのくらいにして、資料の説明をさせてもらいます。みなさんのお手元の配布資料を拡大したものがスクリーンに映っています。

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これは平成20年9月段階の図で、国土交通省がどのくらい工事をやり遂げたかということを知らしめる資料です。元は真ん中に図面があって、そこに写真がいろいろ散りばめてあって、番号がふってある資料で、そこを年に何度か議会で視察するわけです。

ここは長野原地区(注:一部水没予定地の中の最上流部)の一本松の代替地で、既にこの辺ができていまして何軒か住宅が移り住んでいて、あと保育所と長野原東中学校、それから町民広場が建設中です。地元の人は将来的にここが一番代替地としてはいいところになるだろうと考えています。 JR吾妻線の長野原草津口駅から歩いて数分で、ちょうど南向き斜面で日当たりがいいところです。ちょっと風が強いですが、急ピッチに造成が進んでいます。それから赤い網掛けの部分が現在工事をしているところです。残りの代替地の工事と、白砂川に橋がかかる予定です。この橋がいつできるかが、長野原地区の人にとっては問題になっているところです。

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19番の上菅トンネルは既に完成していて、林地区(注:一部水没予定地)の中学生がここを通って通学する、あるいは林地区の人が長野原方面に行くときに利用可能になっています。トンネルを抜けたところに林地区の代替地があり、黒く網掛になったところは既に完成して何軒かのお宅が移り住んでいます。ここはまだ上下水道がきちんと完成していませんで、暫定的に配水池と汚水処理施設をつくって生活を始めることになっています。 12月10日に議会で視察したときには、一旦国道に出ましてもう一回林地区に上がっていく区間を見たんです。立馬橋と久森沢川橋はほぼできています。久森沢橋ではちょうど車道にアスファルトをかけていました。今いちばん力を入れているのは、23万立方メートルを埋め立てる工事です。想像していただいても相当な土量なんですが、作業そのものは単純で、意外と早く進むんじゃないかなと見てきました。

今度は上湯原(注:川原湯地区の上流側)の大柏木トンネルです。10日に貫通式をやった3,005mのトンネルです。大柏木トンネルはもともと、工事用のトンネルで、トンネルの内壁が崩れてこないように鉄骨の丸い輪みたいなので補強しながら、薄くコンクリをふきつけたような状態ですが、国土交通省の説明ですと、「工事する間はそのままで使う」というんです。その理由は、このトンネルがダム本体の予定地を掘削して要らない土砂を運び出すのと、原石山からコンクリを打つために原石を運ぶための作業道になるんです。通常の10tトラックで運んだんじゃ間に合わないんで、重ダンプをすれ違えるようにわざと内壁は打たないまま工事の間は使うということです。

代替地の中では上湯原地区が一番遅れていて、手をつけているところが赤印で、他はほとんどできていない状況です。結局ここが一番先行きも見えていない代替地です。上湯原には川原湯温泉の新駅(JR吾妻線)が予定されていますけれど、未着手です。今後もかなり遅れていくところだと思います。


上湯原から川原湯温泉トンネルと大沢橋を抜けて打越の代替地(注:川原湯地区の下流側の代替地)へは、もう通れるようになっています。ここが打越の既にできた代替地で、何軒か家が移り住んでいます。それから町営住宅の建設がだいぶ形になってきています。

今、打越代替地はこの辺(下流側)を造成しているわけですが、川原湯の温泉街が移る場所が大体この辺り(上流側)になります。国交省は21年3月には代替地は完成すると言っているんですけれども、打越の造成がなかなか思うように進んでいない状況です。今はこの真ん中を上がる道があるんですけれど、道をつぶして埋めないと代替地ができないものですから、法面のところに九十九折でものすごい急傾斜でカーブのきつい進入路を造っています。これが当面、打越地区に移った人たちの生活道路となります。この道路は地元の人にも不評で、「こんな九十九折の道じゃ、危なくてしょうがねぇじゃねぇか」って言うんですけれども、とりあえずここしか通れる道がないんで、二、三回カーブを折り返しながら代替地まで上がることになります。

打越代替地は国有地が多かったんで一番先に造成に手をつけ始めたんですけれど、今になってみると全体の進捗度では一番遅れているところです。結局、(川原湯温泉の)自営業者で移転して商売をやらないと暮らせない人たちの移る所が、全く目処が立たない状況です。


川原湯地区の対岸が川原畑地区です。かなり大々的に代替地や道路の工事をやっていて、ある程度削って形にはなってきています。ここから東吾妻町の松谷にかけて(吾妻渓谷の区間)はトンネルが開いています。開放してはいませんがトンネルを通って、松谷の雁ヶ沢というところまでは行けるようになっています。確かにトンネルを利用すると早いです。現国道で渓谷を抜けるには10分かかかりますが、付け替え国道ですと3~5分で松谷まで行ってしまうと思います。

国土交通省は視察の際に、本体工事をどうしても平成27年度までに仕上げなければならないというのが至上命題と説明し、会議のたびに「平成27年度末までに完成する約束」と口にするんです。27年度末に完成させるためには、どんなに遅くとも本体打設を24年度から始めなければならないらしいんです。

それに先立って掘削とかいろいろ工事があるんですが、「それを始めるのはいつか」と聞きましたら、「23年度の早いうちにやりたい」と言っていました。なぜ急いでやりたいかという理由の一つは、今の情勢の中で本当にダムを造れなくなることもあるということだと思うんです。「とりあえずなんとか着手しちゃいたい」と。国道を早く付け替えてしまわないことには本体工事に入ることができないんです。

国土交通省の八ッ場ダム工事事務所長の説明ですと、国道を付け替えてしまって、現在の国道を本体工事の作業道として使いたいということらしいんです。どうして付け替え国道の湖面三号橋とか深沢橋とかがこんなに早くできるのかなと疑問に思っていたんですが、理由はそういうことでした。

川原湯の人たちが全戸移転する前に本体工事なんてとんでもないっていうのが、私に限らず議員の多くが思っているわけで、12月11日の長野原町議会の八ッ場ダム対策会議の中で、「川原湯の人たちが温泉も含めて全員移転完了するのはいつだ」と質問したんですが、はっきりした答えはないんです。

結局、上湯原の代替地ができていないこともあるし、打越代替地の大沢のあたりも、いつ道路が仕上がってくるかがはっきりと示せない状況じゃないかと。このあたりが予定通りいかないと本体工事にはかかれないので、平成27度年には間に合わなくなるという恐れを感じているというのが現地の状況です。


最後に、せっかくこういう機会を与えていただきましたので、このダムをどうしたらいいか、一言いって帰りたいと思います。10日の大柏木トンネルの貫通式に出たときに、ある水没地区の方から言われたことで、ある面では非常に勇気づけられて今日は来たわけなんです。「とにかくダムが撤退すれば生活再建が早まるんだ。これをやっている限りは7年も10年も先に行かなきゃ(生活再建を)やれねぇよ」と。本当にその通りだと思うんです。

一番の理由は、たとえば大柏木トンネルができて、大柏木の人と川原湯の人たちは大変喜んだんですが、冷静に考えてみれば工事がありますから、7年は絶対にここを行き来できないんです。ダムが仕上がらない限り一般供用にはならない。どんなに早くても7年、その後で内面を処理とかするっていえば、10年とかすぐ経つ話だと思うんです。それまではせっかくトンネルが開いて役に立つ道路でも全然使えないってことなんです。

結局ここであと7年掘ったり埋めたりしていれば、いくら代替地に移り住んで生活再建を始めようと思っても、(川原湯温泉が)外からお客をよんで営業できるような環境じゃないって、地元の人もある程度感じてると思うんです。そういう人の中から、ダムが撤退すれば生活再建が早まるんだということを、おそらく今日私がここに来ることを知っておられる方が話してくださったんだと思います。


前田: 続いて地方財政の専門家の立場から、八ッ場ダムの建設が始まってから長野原という町がどうなっているのか、またこのままいけばどうなってしまうのかというあたりを大和田さんにご説明いただきたいと思います。

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