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八ッ場ダム計画の歴史

八ッ場ダム計画関連年表
1947年(昭22)   カスリーン台風により利根川流域など大洪水。利根川治水計画の見直しが始まる。
1949年(昭24)   利根川改修改訂計画の策定。洪水調節目的をもつ上流ダム群の建設が計画される。
1952年(昭27) 5月 建設省より長野原町長にダム調査の通知が届く。建設省、現地で調査を開始。「悪夢に似た戦争も終結を見てより早や7年、如何に国家のためとは云い乍ら、先頃になって漸く定まった雀の涙程の遺族補償の外見るべき対策何一つなく、殺され損、焼かれ損で後は一切ご破算に願われて了った今日。何で吾等が自らの身を以て、利根川水系下流同胞の人柱たる決意を持ち合わせようという殆ど絶望に似たあきらめに到達することができ得よう。」(長野原町報より)
1953年(昭28) 2月 ダム建設反対の住民大会が開かれる。住民ら上京し、地元の中曾根康弘議員、建設省に決議文を手渡し反対陳情。
    吾妻川が強酸性の河川であることから、ダム計画、表面的には一時中断。
1957年(昭32)   群馬県、吾妻川の水質改善を目的とする「吾妻川総合開発事業」を計画。
1963年(昭38)   草津町に中和工場完成。翌年1月より運転開始。
1965年(昭40) 3月 群馬県、住民にダム建設を発表。
  5月 八ッ場ダム連合対策委員会発足(萩原好夫委員長)。選挙区の福田赳夫氏、蔵相就任の挨拶のため現地入り。「ダムは42年度ごろには着工し、44年ごろには完成させたい」と建設推進を表明。
  12月 条件つき賛成派の委員長に反発した住民多数派675名、反対期成同盟を結成。連合対策委員会は解散。同月、品木ダム完成。
1966年(昭41) 1月 選挙区の中曾根康弘代議士、現地で「ダムというものは軽々しく造るものではない」と発言し、反対派の期待を集める。八ッ場ダム、「福-中対立」の構図に。
  2月 長野原町議会、ダム反対を全会一致で決議。
  6月 建設省、川原湯で岩盤調査。反対期成同盟、厳重抗議し作業中止。
  7月 200名の抗議団、上京し反対陳情。
  9月 橋本登美三郎建設大臣、国会において、「八ッ場ダムは地元の了解なしに建設を強行する考えはない」と答弁。
1967年(昭42) 6月~ 建設省、地元での説明会を長野原町に再三要請するが実現せず。
  9月 建設省、川原湯駅横のダム賛成派宅に現地出先機関(11月に調査出張所となる)を開設。町議会、反対期成同盟773名の請願を採決し、県議会に反対陳情。「私ども川原湯、川原畑、林、横壁の区域は急傾斜の処であるので、ダムができると殆んど水没し、再生の土地はない」(長野原町議会議事録より)。
  12月 ダム反対の総決起大会開かれる。「遠く父祖より受け継し 故郷の田畑吾が住居 湖底に沈めてなるものか ダム反対に決起せよ 」(「八ッ場ダム絶対反対の歌」より)。
1968年(昭43) 3月 現地の出張所、長野原地区に移転し、調査事務所に昇格。現地立ち入り調査を行うが、住民の反対行動激化。5月
1969年(昭44) 2月 反対派、選挙区の小渕恵三議員の紹介で田中角栄自民党幹事長に陳情。
  3月 群馬県議会、「ダム建設促進決議案」を4年にわたる継続審議の末、13回目に採択。
  6月 建設省、川原湯駅前に生活再建相談所を設置。
  7月 建設省、立ち入り調査、測量を試みるが反対派阻止。
  8月 建設省、土地収用法に基づく立ち入り調査を通告するが、反対激しく作業を中止。
1970年(昭45) 4月~ 八ッ場ダムの予算は調査段階から建設段階に移行し、八ッ場ダム調査事務所が八ッ場ダム工事事務所に改称。
  7月~ 佐藤政権下、後継を狙う「角福戦争」激化。建設省に影響力のある田中角栄幹事長、福田蔵相ペースで進められるダム事業を牽制。建設省、現地での強行策を県、町による行政主導方針に転換。
1973年(昭48)   水源地域対策特別措置法(水特法)公布。抵抗激しい八ッ場ダムの地元対策といわれた。この年、建設省内部で吾妻渓谷保全を名目に、ダムサイト予定地が600メートル上流に変更される。
1974年(昭49) 4月 川原湯地区の反対期成同盟委員長樋田富治郎氏、町長に当選(~1990年)。反対運動は盛り上がるが、この後、町政は県、国による締めつけに苦しむことになる。
  9月 美濃部亮吉東京都知事、群馬県庁を訪ね、神田坤六知事に協力を要請。
1976年(昭51) 4月 八ッ場ダム計画を組み込んだ利根川・荒川水系水資源開発基本計画(フルプラン)を閣議決定。
  8月 神田知事、県議会福田派より「ダム建設に消極的」と批判を受け退陣。推進派の支持を受けた清水一郎知事が誕生し、ダム推進を表明。国、県により反対派の切り崩しが進められていく。
1980年(昭55)   群馬県は地元に生活再建案を提示。1982~87年の中曾根政権下で八ッ場ダム建設の諸手続きが進められる。
1985年(昭60)   町長と知事は生活再建案についての覚書を締結。反対運動が転機を迎える。
1986年(昭61) 3月 八ッ場ダムが水源地域対策特別措置法に基づくダムに指定される。水没予定地が八ッ場ダムに係る河川予定地に指定される。
  7月 八ッ場ダム建設に関する基本計画が告示される(完成予定2000年度)。
1987年(昭62)   財団法人利根川・荒川水源地域対策基金が八ッ場ダムを基金対象ダムに指定。長野原町は「現地調査に関する協定」に調印。建設省、翌年から調査を開始。
1990年(平2)   建設省、生活再建案に基づく「居住地計画」を水没世帯に配布。
1992年(平4)   「反対期成同盟」は「対策期成同盟」に変わり、反対運動の旗を降ろす。町、県、国の三者で「用地補償調査に関する協定書」締結。建設省、用地補償調査を開始(~1999年)。
1994年(平6)   建設省、付帯工事に着手。八ッ場ダム関連の付け替え区間を含む上信自動車道(群馬県渋川市~長野県東部市)が地域高規格道路の指定を受ける。
1995年(平7)   建設省、第二次土地利用計画として代替地の計画案を発表。
1999年(平11) 4月 広報センター「八ッ場館」開所。
  6月 水没五地区の代表による連合補償交渉委員会(萩原明朗委員長)が設置される。
  7月 「八ッ場ダムを考える会」発足。
2001年(平13) 6月 「利根川水系八ッ場ダム建設事業の施行に伴う補償基準」に水没五地区連合補償交渉委員会が調印。これより個別補償交渉が開始される。
 

9月

八ッ場ダムの完成を2010年度に延長する基本計画変更を告示。
2003年(平15) 11月 国土交通省、八ッ場ダム事業費変更案(2110億円→4600億円)を発表。
2004年(平16) 9月 八ッ場ダムに関する基本計画の二度目の変更が告示され、事業費が4600億円に増額される。
  9月 八ッ場ダムをストップさせる市民連絡会、関係各都県に対して住民監査請求。
  11月 同会各都県のストップさせる会は、八ッ場ダム事業への支出差止めなどを求める住民訴訟を各地方裁判所に起こす
2005年(平17) 9月 代替地分譲基準について、国交省と水没五地区連合交渉委員会(萩原明朗委員長)が合意書に調印する。
2007年(平19) 1月 八ッ場あしたの会発足(八ッ場ダムを考える会の活動を継承)
  5月 水没予定地、川原湯温泉において、地元主催のイベント「加藤登紀子コンサート ”縁日”」が開催される。
  6月 水没予定地の代替地の分譲を開始。
  12月 国土交通省、事業工期を2015年度末に延長する計画の変更が必要になったと公表。
2008年(平20) 2月 八ッ場ダムを考える群馬県議会議員の会発足
  5月 八ッ場ダムを考える1都5県議会議員の会発足
  9月 八ッ場ダムの事業工期を2010度→2015年度に変更し、建設目的に発電を追加する第三回目の計画変更が告示される。
2009年(平21) 1月 国土交通省、八ッ場ダムの本体工事の入札を官報で公告。
  4月 八ッ場ダム推進議連1都5県の会発足
  8月 30日の総選挙翌日、国土交通省の谷口事務次官、八ッ場ダム本体工事入札の凍結方針を明らかにする。
  9月 前原誠司国土交通大臣、八ッ場ダム本体工事の中止を表明
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