昭和27年から始まったダム闘争は、50年の歳月を経た平成13年6月の補償基準交渉妥結調印により、ようやく終焉を迎えたかに思われた。当時、住民は、長いダム問題から開放され、肩の荷が下りたように一様に安堵したものだ。しかし、ホッとしたのも束の間、現地再建計画に取り組まなければならなかった。
国交省は以前から水没者に、現地に残るか否かのアンケート調査を、数回にわたって実施してきた。県はこれを受けて、移転希望者に先行投資という形で、補償金を肩代わりする制度を作った。2年間という期限つき、利息まで県が負担するという制度だった。この制度が引き金になり、それでは私もと、町外へ出て行く人が多くなったのは事実だ。
おもえば昭和55年、県が独自の生活再建案を作成して以来、6年がかりの見直し、修正、さらに32項目の要望事項を追加して、これらが本当に受け入れられ、実行が約束されるならばと、地元でダム建設が容認された経緯がある。
その当時の住民の心情は、「代替地は補償金の範囲内で安く買える。今後は造成も急速に進み、まもなく新しい土地に引っ越しできる」と、誰もがその日を望み、期待をもっていた。補償基準の提示、交渉、妥結、そして調印・・・一般的に考えて、これですべての作業が終わったものと思ったのだ。
しかし、その後、国交省が提示した代替地の分譲価額は予想以上に高かった。値下げを要望したが、僅かの金額を下げるとの返事に1年も待たされた。その後も、再度の値下げ交渉を行ったが、国交省の回答はゼロ回答であった。
特に川原湯地区の場合は、温泉街ゾーンの価格が、他の地価の3割増しであることを不服とし、単独の再交渉に踏み切った。だが国交省の回答文は、
「少しでもご希望に沿った見直しができないか検討させていただきましたが、国といたしましては残念ながら、基本的にこれ以上の見直しはできません。ご不満の点も多々あろうかと思いますが、何卒、ご理解いただきますようお願い申し上げます」
というものだった。
川原湯では村総会を開き、意見の集約を図ったが、再度のゼロ回答に会議は紛糾し、しかたなく無記名投票を行い、票差で基準額を受け入れることが決まった。
こうした経緯の中で、国の姿勢は、「ダムを造らせて」から、「ダムを造るんだ」というものに変わっていった。ここを墳墓の地と決めた人々も、国の姿勢に加え、分譲に伴う複雑な仕組み、事業予算の制約などによる用地買収の遅れ、さらに未整備の代替地造成など、この土地に見切りをつけ、人知れず最後の決断をすることになった。
「丈夫なうちに・・・動けるうちに・・・」
「ここにいても、先行き見込みがない・・・」
心の中で思っていることを、誰に話しようもなく、ただ涙をのんで住み慣れた我が家を捨て、一人、また一人と、親しい友人、隣近所の人たちに別れを告げ、故郷をあとにして行くのだ。
水没者はどこまでいっても犠牲者なのだ。これを癒してくれるものは何もない。
国策の名の下に、下流受益都県の人々のため、という名目で、故郷を奪われ、家をなくし、人の財産や名誉、さらには人生までも台無しにしてきたダム行政、水行政を根本的に見直すことを、この際、強く望みたい。
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