水没予定地にある川原湯温泉では、冬の間、水道水源が枯れ、住民の生活に暗い影を落とした。大柏木トンネルトンネル工事によって水脈が切られたのが原因だという。ダム建設現場に取り巻かれた観光地は苦しくなる一方だ。
八ッ場では、水没住民の生活再建の手立てとして”現地再建方式”というレールが20年以上前に敷かれた。当時、下流ではダム不要論を訴える声は小さく、夏になるとお決まりの渇水騒ぎが報道されていた。国のダム建設の意思はみじろぎもせず、20年以上ダム闘争に明け暮れてきた地元住民は、ダムを受け入れざるをえない状況に追い込まれていた。ダム建設の布石は中曽根政権のもとで次々と打たれてゆく。国の意向を受けた群馬県が、疲れきった住民らを説得する道具として利用したのが”現地再建方式”であった。国会では「大規模リゾート建設促進議員連盟」(会長:小渕恵三)の旗振りでリゾート法が制定される(1987年)。八ッ場地区はリゾート法に基づく”ぐんまリフレッシュ高原リゾート構想”の重点整備地区に指定され、バブリーな箱物政策が住民に幻想をふりまく役割を担った。
全国のダム予定地と同様、八ッ場でもダム事業が動き始めると補償金目当てで水没予定地に流入する、いわゆる”ダム屋”がいたといわれる。2001年の補償基準調印後、それらの人々は真っ先に出て行ったが、水没予定地に留まる住民は依然として少なくなかった。しかし2003年12月、国交省が周辺地価より遥かに高い代替地の分譲価格を発表してからは、人口流出が一気に進む。分譲基準が正式に調印された2005年9月以降、川原湯温泉街では、家屋の解体が日常風景となった。
国交省は年末、代替地計画を4割も縮小したため、昨夏に続き、この冬、代替地移転の希望を確かめる意向調査を改めて行った。だが、実際に代替地に移転する世帯がどれほどあるかは、依然として不透明だ。国交省は「住民との合意の上で代替地計画を進めたい」としているが、代替地の最終的な設計図は未だにできていない。地権者の中には、ダム事業の進め方に納得できず、道路、代替地などの用地提供を拒む人も少なくない。
「めがね橋も国道のトンネルも二車線しかない。それなのに、1~2キロしか続かない村の土地は四車線分の用地を買うという。ヘビがカエルを呑み込んだような、変な道路ができるだろうヨ」― 税金のムダ遣いを目の当たりにしている地元では、「八ッ場ダムの完成は2010年度」という国交省の言葉を信じる人はいない。
川原湯の対岸にある川原畑では、住民の心の拠り所である神社の解体が始まった。温泉街の坂の上にある川原湯神社も、つけ替え県道の予定地にかかっている。
4月8日、川原湯神社では太々神楽が奉納され、老若男女が待ちかねた春の訪れを祝った。古式ゆかしい装束に身を固めた川原湯の男衆が、国つ神、天つ神、ヤマタノオロチなどの面をかぶり、笛と太鼓に合わせて古(いにしえ)の物語を演じる神楽殿には、春の光があふれ、時折吹き込む突風が笹の葉をザワザワと鳴らした。地元、長野原町では4期16年続いた田村町政が終わりを告げ、4月23日の町長選で新町長が誕生した。