「八ッ場ダム 過去・現在・そして未来」(岩波書店、2011年)より
国策である“首都圏の水瓶”の重さに押し潰されそうになりながら、それでもなお八ッ場の住民が絶望的な闘いを続けたのは、ダムの犠牲が見通せたからだとされている。群馬県内では、七六年に完工した草木ダムの予定地でダム屋が跋扈し、補償金をめぐって金融機関が預金争奪戦を演じるさまや、地元がダム受け入れ後、当局が手の平を返したように冷淡になった様子が克明に報道されていた。期成同盟は草木ダムの水没住民のその後の追跡調査も行ったという。やがて同じ悪夢が八ッ場でも繰り広げられることになる。
多数派を相手に行政が行った切り崩しは、住民間の分断、デマの流布に加え、建設省や県の職員による水面下の説得工作であった。新改築、子供の進学、就職、何をするにもダムが絡む十年余を経て、実際、住民は疲れはてていた。この頃、期成同盟内部では、県との交渉のために前日秘かに練った戦略が翌日には県庁に漏れていることがしばしばあったという。裏で糸を引いたのは行政だが、表立って対立するのは住民同士であった。裏切り、恫喝、欺瞞など、言葉に尽くせぬ苦悩の歳月を経て、ダム予定地は疲弊していった。
群馬県は地元がダム計画受け入れ前の1979年に、水没住民の生活再建案をつくることを理由に、水没予定地域の調査を行いましたが、当時はダム計画を前提とした調査は地元ではまだ協力を得られる状況ではありませんでした。1980年に群馬県が提示した「生活再建案」(1980年)には、調査時点で水没人口1170人、340世帯との推計値が示されています。
2017年、最後の水没住民が立ち退きました。最終的に水没補償の対象となったのは290世帯でした。道路建設などによる移転も含めると、移転世帯は実に470世帯に上ります(長野原町420世帯、ダム建設地下流側の東吾妻町50世帯、国交省資料「八ッ場ダム事業進捗状況」より)。
水没予定地は長野原町の東部にある五つの大字です。ダム建設地である名勝・吾妻峡に隣接する川原畑(かわらはた)地区と川原湯(かわらゆ)地区は、地区内のほぼ全戸が水没することから、「全水没予定地」と呼ばれてきた、犠牲の最も大きな地域です。上流側の林地区、横壁地区、長野原地区は、吾妻川沿いの一部の家屋や田畑のみが水没するため、「一部水没予定地」と呼ばれてきました。
地元におけるダム反対運動の核となったのは、反対闘争当時、隆盛であった川原湯温泉でした。反対住民を説得するために国と群馬県が考えたのが、同じ地区内の山の中腹に住民の移転代替地を造成し、代替地へ温泉を引湯する“現地再建ずり上がり方式”による代替地計画でした。
しかし、水没住民の大半はその後、代替地への移転をあきらめ、他地区へ転出することになります。その理由は、2005年にようやく決まった代替地の分譲価格が周辺よりはるかに高額に設定されたこと、当初1990年代とされた代替地の分譲が大幅に遅れたこと(川原湯地区では2008年分譲開始)、ダム事業による温泉街の衰退により営業が困難になったことなどです。
以下の表は、生活再建案のための調査が行われた1979年当時と現在の状況を比較しています。代替地への集団移転が形ばかりのものとなり、特に全水没の川原畑地区と川原湯地区の人口が激減していることがわかります。
ダム予定地を抱える長野原町が八ッ場ダム事業を正式に受け入れた1992年以降、マスコミによる地元情報の多くは、八ッ場ダムにおける生活再建事業が順調に進んでいることを印象づけるものですが、この表に示された数字は冷厳な事実を物語っています。
2018年5月末の各地区の人口と世帯数は、長野原町の公式サイトに掲載されている住民基本台帳に基づく人口集計表による数字です(1)。表の一番右側の代替地分譲世帯数は、八ッ場ダム事業の進捗状況を示す国交省資料(2)による数字です。
川原湯地区と川原畑地区では、今も地区内に残る住民の殆どが代替地を国交省から購入しています。この両地区における世帯数が代替地分譲世帯数を大きく上回っているのは、地区外に移転しながら住民票を地区内に残している住民が少なくないためと考えられます。
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