八ッ場ダム事業は、様々な行政手続きによって推進されてきました。
ダム事業を中止するためには、これらの行政手続きをこれまでとは反対の方向で実施する必要があります。
具体的な手続きについて、以下で解説しています。
わが国では、一旦始まったダム計画は中止が想定されておらず、中止された際の法制度がありません。このことはダム計画を見直す上で大きな障害となっており、民主党政権がダム事業の中止という政策転換を図った時、ダム予定地域から大きな反発が起こった要因ともなりました。
ダム事業が始まると、地域は衰退の一途を辿るのが実状です。現地にダムの工事事務所ができ、道路や砂防などの関連事業が始まると、地域の産業構造はダム事業に依存せざるをえなくなります。ダム計画によって収入の落ち込みに苦しむ住民の多くは、ダムによる生活補償によって生活設計を立てるようになります。
八ッ場ダム計画は1952年に構想が発表されてから、何世代にもわたり地元に大きな影をおとしてきました。全国に数あるダム予定地の中でも、八ッ場ダム予定地の住民の犠牲は特に甚大なものがあります。
ダム中止の政策を進めるにあたって、最も重要な課題となる地元の問題を解決するためのポイントを以下にまとめています。
ダム中止という政策転換はダム計画の始まりと同様、地域住民に全面的に受け身の立場で生活の大きな転換を求めることを意味します。住民の犠牲を最小限に抑える為には、ダム中止後の法整備が不可欠です。
これまでに公表されてきたダム中止後の法案は以下の通りです。
生活再建支援法案の詳細はこちらをご覧ください。
民主党議連「八ッ場ダム等の地元住民の生活再建を考える議員連盟」はダム中止後の法整備を求める八ッ場あしたの会、八ッ場ダムを考える1都5県議会議員の会などの働きかけを受けて、2011年9月に「ダム事業の廃止等に伴う特定地域の振興に関する特別措置法案」を公表しました。
同年12月、前田武志国交大臣が八ッ場ダム事業の継続を発表。これに対して、八ッ場ダムに反対する民主党内の国会議員らから大きな反発の声があがり、政府は八ッ場ダム本体工事再開の条件の一つとして、ダム中止後の特別措置法案を国会に提出することとなりました。
この時、八ッ場ダム建設は既定路線とされ、法案は川辺川ダム予定地の五木村をモデルとして作成されました。八ッ場ダム本体工事の中止と共に法整備を求めてきた八ッ場ダムの反対運動にとって、なんとも皮肉なことでした。
2012年3月、ようやく法案が国会に提出されましたが、同年12月の政権交代により民主党政権の法案は廃案となりました。
民主党政権下で公表された法案について、詳細はこちらのページをご覧ください。
自民党は2012年12月の総選挙にあたり、当会による公開アンケートにおいて、「民主党が国会に提出した法案は不十分であるので、ダム事業中止後の法案を新たに作り、国会に提出する」と回答しましたが、その後、法案作りに取り組む気配は見られません。
2012年12月に復活した自公政権は、八ッ場ダム本体工事の早期着手を目指しており、ダム予定地の生活再建、地域振興はダム事業によって行うとしています。
しかし、ダム事業による生活再建と地域振興には限界があります。八ッ場ダム事業と同様、全国の多くのダム事業ではダム湖観光による地域振興が地元にダムを受け入れさせる際のダム起業者の説得材料となってきましたが、その殆どが失敗し、ダムを抱える地域は衰退を余儀なくされています。
八ッ場ダム計画では、ダム事業による「生活再建策」、「地域振興策」は、水没予定地の山側に造成する「代替地計画」を中心に進められてきました。しかし、地形・地質を無視した人工的な代替地計画は多くの困難を伴い、当初は1990年代に完成する筈だった代替地がいまだに完成していません。川原湯地区、川原畑地区など地区全体が水没を宣告されている地域では、当初の四分の三の世帯が代替地をあきらめて転出し、残された住民は水没予定地と代替地に分かれて生活している状態です。
水没予定地に暮らす人々の中には、代替地への移転を望んでいる住民もいますが、川原湯温泉街の移転予定地である打腰代替地の第三期分譲地はいまだに造成が完了していません。
八ッ場ダム事業はダム予定地の地質、水質の面で悪条件を抱えており、今後事業が進めば、さらに問題が深刻化することは必至です。20世紀の負の遺産を未来世代に押しつけないためには、国がダム事業を中止し、ダム予定地の再生に取り組むよう、多くの国民が声をあげていかなければなりません。