» 「加藤登紀子と仲間たちが唄う~八ッ場いのちの輝きイベント」DVDが完成しました
八ッ場の今を紹介するビデオで幕を開けた第一部は、登紀子さんと永六輔さん、専門家をまじえたシンポジウムでした。
イベント呼びかけ人の澤地久枝さんがこの国のありようを語り、野田知佑さんが国交省の河川政策を告発し、池田理代子さんが「ふるさと」を独唱。
南こうせつさんも加わった第二部―ライブでは、「神田川」「そこには風が吹いていた」「Power to the people」と、曲を追うごとに会場は熱気に包まれ、フィナーレでは全員が手を取り合って「故郷の空」の大合唱となりました。
電車を乗り継ぎ、千駄ヶ谷の駅からタクシーをとばして会場の日本青年館に滑り込んだ。第一部がちょうど終わる時だった。朴訥な風情の永六輔さんがステージ中央に立っていて、会場はとても盛り上がっていた。
休憩を挟み、第二部が始まった。
登紀子さんが歌うと、切々たる悲哀が不思議なことに人生の喜びに転化する。歌声が流れ、低音から高音と、その歌詞の一言の響きが胸にしみる。オブリガードとギター・・・ピアノの音色がうつくしい。歌が豊かにふくらむ絶妙のコンビだ。人生を重ねて歌うとは、このことか・・・。歌にのせて伝わる深い思いと、そして重なる私の人生・・・涙が溢れた。
友情出演の南こうせつさんの「神田川」は、私の新婚時代そのもの。神田川に近い畳一間のアパートが私たちの出発だった。風呂屋を出るときの合図は、彼の大きな咳払い。
南こうせつさんの優しい歌が、40年にならんとする以前の懐かしい光景を思い出させてくれた。
私ももう60歳を超した。人生は本当にあっという間だが、生きとし生けるものすべては生を全うし、死を迎え、脈々と続く悠久の土となる。吾妻渓谷も、悠久の時間が創造した生物の歴史と生命の循環の美なのだ。いずれ、私たちも山になるのだろう。
♪ 夕空晴れて秋風吹き・・・♪
登紀子さんとみんなで合唱しながら、紅く染まる吾妻渓谷を思い出す。
加藤登紀子さん、八ッ場に心を寄せてくださってありがとう。私たちでは絶対できない素敵な出会いを創ってくださってありがとう。手を取り合う優しさと、そして何よりも声に出すこと。よりよき選択へ行動する勇気と希望に向かう生命の燃焼をありがとう。
1977年の新聞記事に、こんな一節がありました。
この時、すでにダム計画発表から25年が経過していましたが、それから30年近くたった今も、八ッ場ダムは黒い糸を吐き続けています。
首都圏のダム反対運動に対して、長年の闘争のはてにダムを受け入れた水没予定地の住民は、「今頃になって反対しても、もう遅い」と反発してきました。今も昔も起業者である国は、ダム事業の全体像を流域住民に明らかにしようとしません。ダム計画発表と同時に、水没予定地では生活破壊が始まりましたが、下流では地元がダムを受け入れ、実際に事業がスタートして初めて、税負担、環境破壊などの被害が実感されるようになりました。破壊された生活を再建したいという地元民の切実な願いは、黒い糸車にかかると「ダム事業の推進」にすり替わり、「公共事業のコスト縮減」のターゲットとされてしまいます。これではいつまでたっても、下流と地元の利害が対立する構図は変わりません。
”八ッ場”という言葉は、群馬県長野原町にある旧川原畑村の字の名です。吾妻渓谷に近い川原畑は、対岸の川原湯と共に全水没地とされています。昨年、川原畑から転出した方に、八ッ場の名のついた沢を案内してもらいました。かつて澄んだ水が豊かに流れ、イワナ、ヤマメが棲んだ八ッ場沢は、巨大な砂防ダムによって流れを幾重にも遮られていました。
八ッ場ダムとは何なのか? ダムとセットで語られる八ッ場に、人々の生活があり、命があることに、今まで首都圏下流の私たちはどれだけ目を向けてきたのか、あらためて考えさせられました。脱ダム運動には様々な切り口がありますが、ダム計画が現地で破壊してきたもの、破壊しようとしているものが、何よりも雄弁に問題の本質を語っているように思えました。
イベントのシンボルとなったヤマメの図案は、水没予定地にある川原湯温泉の食堂の少年が描いた木彫画です。登紀子さんが川原湯を訪ねた昨夏、周辺の沢で魚釣りをするという小学6年生の少年は、近所の大工さんから貰った硬い集成材に、ヤマメが川面から跳び上がって蝶を捕まえる瞬間を刻みつけていました。
ヤマメの少年はこの春、中学生になりました。4年前、少年の通った小学校は、群馬県で一番古い木造校舎を解体して代替地に引越しましたが、今度は入学したばかりの中学校の解体作業が始まりました。廊下を雑巾がけするとき、木のにおいがするのが好きだった、という子どもたちは、「僕たちの小学校を返して!」と親たちに訴えたといいます。
人間関係が希薄といわれる時代ですが、山村の人々と都市の住民が共生するためには、人と人とがつながり合い、叡智を結集するしかありません。どんな時代にあっても、未来に向かって生きる子供たちがいる限り、希望は私たちと共にあります。ステージで加藤登紀子さんが、「みんなで一緒に温泉に行きましょう!」と訴えた川原湯のお湯は、今日も地の底からこんこんと湧き出ています。
◇ 呼びかけ人 ◇(五十音順)
秋月岩魚(写真家)・天野祐吉(コラムニスト)・五十嵐敬喜(法政大学教授)・池田理代子(劇画家・声楽家)・石川理夫(温泉評論家)・井出孫六(作家)・宇沢弘文(日本学士院会員)・牛山積(早稲田大学名誉教授)・大熊孝(新潟大学教授)・大沢悠里(フリーアナウンサー)・岡田幹治(元朝日新聞論説委員)・尾形道夫(暮らしの手帳社)・小川明雄(ジャーナリスト)・大谷ゆみこ(ピースフードアクションnet.いるふぁ主宰)・加藤登紀子(歌手)・加藤尚武(鳥取環境大学元学長)・神林章夫(株式会社カスミ名誉会長)・川村晃生(慶応大学教授)・岸田衿子(詩人・童話作家)・熊澤雄一(都市計画家)・神津信一(東京税理士会副会長)・古今亭菊千代(落語家)・小平尚典(写真家)・小室等(歌手)・澤地久枝(作家)・C・W・ニコル(作家)・椎名誠(作家)・司波寛(都市計画コンサルタント)・嶋津暉之(水問題研究家)・十川治江(工作舎代表取締役)・須田春海(市民運動全国センター世話人)・瀬戸昌之(東京農工大学教授)・瀬山士郎(群馬大学教員)・高木久仁子(NPO法人高木仁三郎市民科学基金事務局長)・高野孟(『インサイダー』編集長)・高野庸(群馬大学名誉教授)・竹尾茂樹(明治学院大学教授)・田嶋征三(画家)・立川涼(元高知大学学長)・龍村仁(映画「地球交響曲」監督)・田中学(東大名誉教授)・田中優(未来バンク代表)・樽谷修(八ッ場ダムを考える会代表)・辻信一(明治学院大学教授)・暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)・鳥越俊太郎(ニュースの職人)・富山和子(立正大学名誉教授)・富山洋子(日本消費者連盟代表運営委員)・中下裕子(ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議事務局長)・中川李枝子(童話作家)・中里英章(七つ森書館代表取締役)・中島康(清流川辺川を守る県民の会代表)・長野ヒデ子(絵本作家)・中平順子(子供文化研究家)・中村敦夫(俳優)・西薗大実(NPO法人ストップ・フロン全国連絡会代表)・西田穣(まちづくり工房)・野田知佑(カヌーイスト)・羽田澄子(記録映画作家)・樋口恵子(NPO法人高齢社会をよくする女性の会・理事長)・姫野雅義(吉野川シンポジウム実行委員会代表世話人)・藤井絢子(滋賀県環境生活協同組合理事長)・藤原寿和(廃棄物処分場問題全国ネットワーク)・本田亮(環境絵本エコノザウルス作者)・前田和男(編集者、作家)・松谷みよこ(童話作家)・安田節子(食政策センター「ビジョン21」代表)・やべみつのり(紙芝居作家)・山口幸夫(原子力資料情報室共同代表)・山西哲郎(群馬大学教授)・矢部俊介(土木技術者)・渡辺斉(ジャーナリスト)・吉山寛、橋本良仁(高尾山の自然を守る市民の会)
八ッ場ダムをご存知ですか?
戦後まもなくダム構想が生まれた利根川水系の八ッ場ダム事業は、半世紀以上の時が経過しながら、いまだにダム本体の建設にいたっていません。
わが国では、川辺川ダム(熊本県)をはじめ、多くのダム事業が社会問題化してきましたが、八ッ場ダムの水没予定地は、戦後限りなく膨張を続けてきた首都圏の陰(かげ)として、都市問題のひずみの犠牲となってきました。川の上流と下流の住民が対立してきた過去を乗り越え、同じ時代、命をはぐくむ者として共に手を携える関係をつくるために、私たちにできることは何なのでしょうか? 環境の世紀、人権の世紀といわれる今日、より多くの方々とご一緒に、八ッ場ダム問題について考えたいと思います。
(八ッ場といのちの共生を考える実行委員会)
~加藤登紀子さんのメッセージ~
『川原湯温泉をはじめて訪ねたのは去年の夏、温泉宿のあかりにそそられて坂道を登り、食堂でおいしい川魚料理をつまみながら一杯飲んだ。
その時の話題のひとつ。「ダムに沈む川原湯温泉」という看板の字を変えるので、今新しいアイデアを募集中だという。私も「心も体も美人がいっぱい」など、いくつか考えてみた。
ダムが計画されて五十余年、二千億円以上がすでに投入されたが、まだ、ダム本体の工事までたどりついていない。代替地の整備もおくれ、宙ぶらりんの状態におかれた地元の人たちは、あきらめと苛立ちにゆれている。
浅間山噴火の後の火山地質が工事を困難にしている上に水質にも問題があるという。東京、埼玉、千葉、茨城など首都圏の飲み水の確保と治水のためというけれど、このダム計画自体の是非も論争の中だ。
こんな不確かな状態に何十年も生きてきた人たちの辛さを思うと、東京や千葉の人たちが何も知らずにいていいのかと申し訳なさでいっぱいだ。
今もダム工事では予算が投じ続けられているけれど、さらに数千億円かかるこのダムが出来ない可能性もあることも考えておかなければいけないだろう。
せめて、今、この水没予定地で生きている人たちを力づけたい、思うことはただそれだけだ。そして、知らん顔してる首都圏の私たちに、何が出来るのかを考えたい。
食堂の家の少年が描いたピチピチのヤマメの絵が忘れられない。大人たちがいろんな思惑に疲れ果てていても、子供たちにはふるさとを全身で受けとめていてほしい。どんなことがあっても、生きるよろこびにむかって生きていけるように。』
☆ 呼びかけ人からの一言メッセージ(抜粋) ☆