群馬県民に親しまれてきた「上毛かるた」が生まれたのは、第二次大戦後まもなくの1947年のことでした。当初の目的は「これを広く頒布し生活困窮者の援護資金を造成する」ことだったといいます。70年目となる今年、毎日新聞群馬版では、「上毛かるた70年」と題して元旦から関連記事を連載しています。
上毛かるたの「や」の札を取り上げた7日の記事では、八ッ場ダムによって破壊される名勝・吾妻渓谷を、「さ」の札を取り上げた4日の記事では、下久保ダムによって失われた名勝・三波石峡の景観について伝えています。
写真右=名勝・吾妻渓谷の八ッ場ダム建設地。本体工事が始まる前の2013年11月9日撮影。
今年は八ッ場ダム事業が始まって50年目に当たります。同じ利根川水系の下久保ダムは、八ッ場ダムと同時期に計画されましたが、その完成は、八ッ場ダム事業が開始された一年後の1968年のことでした。八ッ場ダムはダム予定地を流れる酸性の吾妻川や川原湯温泉を核とした現地の反対運動により事業が難航し、いまだに完了していませんが、大きな障害もなく完成した下久保ダムでは、この半世紀の間に、名勝・三波石峡に草が生い茂り、観光客も住民も減少し、地域の衰退に歯止めがかかっていません。
2日の記事にあるように、三波石峡では下久保ダムによって遮られている土砂の流下を人工的に再現する試みが続けられていますが、その効果はダム直下に限られており、渓谷の大半は草木に覆われ、昔日の面影をとどめていません。
名勝の中に建設される八ッ場ダムによる景観破壊は、下久保ダムをさらに上回るとされます。八ッ場ダム完成後の吾妻渓谷は、三波石峡と同じ運命をたどるのではないでしょうか。
写真右=利根川水系の神流川に1968年に竣工した下久保ダム。2013年5月30日撮影。
◆2017年1月7日 毎日新聞群馬版
http://mainichi.jp/articles/20170107/ddl/k10/040/144000c
ー上毛かるた70年 異聞見聞録/5 「や」 耶馬溪しのぐ吾妻峡 上流4分の1水没の運命ー
いつまでも」-牧水の思い断つダム計画
私はどうかこの渓間の林がいつまでもいつまでもこの寂びと深みとを湛(たた)えて永久に茂つてゐて呉(く)れることを心から祈るものである。ほんとに土地の有志家といはず群馬縣(けん)の當局者(とうきょくしゃ)といはず、どうか私と同じ心でこのさう廣大(こうだい)でもない森林のために永久の愛護者となつてほしいものである。
歌人、若山牧水(1885~1928年)は紀行文「静かなる旅をゆきつゝ」の中で、吾妻渓谷(長野原町、東吾妻町)への思いをこう記した。しかし、その願いもむなしく、100年近くたった今、渓谷には、八ッ場ダムの建設工事に伴い24時間体制で槌音が響く。山肌は削られ、昨年6月にはコンクリートが流し込まれた。
牧水は晩年、移住先の静岡県沼津市で、潮風への防風林「千本松原」を伐採する県の計画に反対し、中止にこぎつけた。「吾妻峡がダムに沈むと知ったら、間違いなく反対運動に加わったでしょう」。八ッ場ダム建設中止を求めてきた川村晃生・慶大名誉教授(環境人文学)は思いをはせる。
□ □
吾妻渓谷は、地理学者の志賀重昂に1912年、新聞紙上で「九州の耶馬溪にも勝る」と評された。牧水は18年秋、中之条町から長野県松本市に向かう馬車で、偶然出会った渓谷の美しさに心を奪われる。旅程を変更して近くの川原湯温泉に一泊し、数時間のうちに22首もの歌を詠んだ。翌々年にも新緑を見ようと再訪し、発表した紀行文が冒頭で紹介したものだ。
「吾妻峡」として国の名勝に指定されたのは35年。その17年後の52年、八ッ場ダム計画が浮上した。国土交通省によると、当初、渓谷の中央部から建設する構想だったが、景観保護の観点から約600メートル上流に建設地を移した。それでも、ダム本体工事の建設で、渓谷の上流4分の1がダムに埋まり、水没する。
□ □
地元では、影響がすでに出始めている。「ここ数年で、渓谷への見学客がずいぶん減った」。東吾妻町の観光関係者はこう明かす。以前は川原湯温泉から吾妻渓谷まで足を延ばす温泉客がいた。渋川と草津を結ぶ国道145号沿いに渓谷があったため草津の行き帰りに立ち寄る観光客も多く、渓谷、国道、温泉が「三位一体」だった。しかし、ダム工事に伴い、長いトンネルが続く新国道ができた。渓谷と川原湯温泉もダムで分断される。
東吾妻町は昨秋、江戸から大正時代にかけ実在した木橋「猿橋」を復元させ、今春には駐車場と猿橋を結ぶ森内の遊歩道も整備するが、観光客は戻るのか--。
牧水は紀行文にこう書いている。
若(も)しこの流を挟んだ森林が無くなるやうなことでもあれば、諸君が自慢して居るこの渓谷は水が涸(か)れたより悲惨なものになるに決つてゐるのだ。【尾崎修二】
■ことば
吾妻峡十勝
約4キロの吾妻渓谷には10カ所の見どころがある。最も上流にあり、3段に分かれて落ちる「白糸の滝」▽川幅わずか3メートル、高さ50メートルの「八丁暗がり」▽中国の蓬莱山を連想させる崖「大蓬莱」「小蓬莱」など。このうち、白糸の滝はダムの下に沈む。
◆2017年1月4日 毎日新聞群馬版
http://mainichi.jp/articles/20170104/ddl/k10/040/046000c
ー上毛かるた70年 異聞見聞録/2 「さ」 三波石と共に名高い冬桜 清流復活、住民力合わせー
ダムに奪われた水 始まった再生への歩み
国指定の名勝「三波石峡(さんばせききょう)」(藤岡市)は、群馬、埼玉の県境を流れる神流川に、大小数百に上る奇岩・巨石群がおりなす景観美が約1・5キロにわたって続く。この季節は淡いピンクの冬桜が彩りを添える。
三波石は青みの中に石英が白く浮き出ているのが特徴で、江戸時代の初期から庭石として珍重されてきた。景勝地としても古くから知られ、江戸時代は、観光に訪れる旅人から案内料を得ていた人がいた。最寄りの地区でも「同業者」が現れたため、参入を巡って裁判ざたになったとの記録が江戸時代の文書に残されている。 1957(昭和32)年、国指定名勝と天然記念物に指定されたが、その後、高度経済成長の波を受け、危機に直面する。
□ □
68年、峡谷のすぐ上流に、治水・利水を主目的に下久保ダムが建設された。ダムの水は通常、放水路を通って流されるため、ダム直下の三波石峡に水が流れなくなってしまった。川は、石の美しさに磨きをかける役割も果たす。洪水時には上流から流れてきた砂や石、岩によって三波石が磨かれる。「大水は銘石の化粧水」。地元ではこうした言い伝えがあるほどだ。
やがて石はアカやほこりで黒ずみ、川床には雑草が繁茂するようになった。往時の景観を取り戻そうと、99年から、地元の旧鬼石町の小学生や高校生らが年1回、ブラシで石を磨くなどの活動を始めた。さらに、97年の河川法改正でダム周辺の環境整備が重視されたことを受け、2001年から放水路を分岐し、ダム直下に常時、放流されるようになった。03年からは、ダム湖に堆積(たいせき)した土砂を流す事業が毎年実施されている。ただ、「ダムができる前の状態にはまだまだ時間がかかる」(下久保ダム管理所職員)。
□ □
06年、流域自治体や地元住民らが地域活性化を目指し、「神流川ビジョン推進協議会」を発足させた。その目標の一つが「清流神流川と三波石峡の復活」だ。今年は三波石峡の名勝指定から60周年。堀口滋生会長は「多くの人や団体の協力で、地域をにぎやかにしていきたい」と話している。【畑広志】=つづく
■ことば
三波石
名前の由来は、「緑泥石の緑」「緑れん石の黄緑」「石英脈の白」の3色がそろっている▽石英脈が波上に見える--など諸説ある。「上野国志」(1774年)によると、1742(寛保2)年には、48石に名が付けられていたと記され、最下流の「一番石」から「三番石」までが波に見えることからそう呼ばれたとも言われている。
◆2017年1月1日 毎日新聞群馬版
http://mainichi.jp/articles/20170101/ddl/k10/040/113000c
ー上毛かるた70年 つなぐ絆 親から子、子から孫 郷土愛を育む44枚ー
「戦後復興につながる」父の思い 生みの親の長女・西片恭子さん
なぜ、「上毛かるた」は生まれたのか。生みの親の一人、浦野匡彦(まさひこ)・元二松学舎大学長(1910~86年)の長女、西片恭子さん(80)に、父がかるたに込めた思いを振り返ってもらった。
「『上毛かるた』を募る」。終戦から間もない47(昭和22)年1月、上毛新聞の2面にこんな見出しの告知記事が掲載された。記事にはその目的が「上毛の歴史的人物、名勝史蹟(しせき)の紹介と愛国心の発揚をはかるため『上毛かるた』を製作、これを広く頒布し生活困窮者の援護資金を造成する」と書かれている。
募集主の「同胞援護会県支部」の責任者を務めていたのが浦野氏だった。家族にいつもこう語っていたという。「子どもの郷土愛や人類愛を育てることが戦後復興に必ずつながる」
旧満州(現中国東北部)の官吏だった浦野氏は46年春、家族ら6人と一緒に、群馬へ引き揚げた。列車の窓から見える郷里の景色は一変していた。町は空襲で焼け野原となり、白く美しかった高崎観音は戦火で薄汚れていた。疲れ切った様子で眺めていた父の姿を西片さんは覚えている。
かるたの募集には、県民から272件が寄せられ、これを基に、44枚が選ばれた。選定に当たって、浦野氏が強いこだわりをみせた札がいくつかあった。
一つは、引き揚げ列車から見えたあの白衣観音。「戦争の苦しみを見つめてきた観音様の慈悲の御心で、子どもたちを守り、夢を与えてやってほしい」。浦野氏は娘に熱く語っていたという。
「雷と空風 義理人情」も肝いりの札だった。上州人の気質を表したこの札にまつわる秘話を晩年、西片さんに明かしている。基になったのは侠客(きょうかく)の国定忠治や尊王論者の高山彦九郎ら。県民からの応募では人気を集めたが、当時、日本を占領していたGHQ(連合国軍総司令部)の検閲で、「ヤクザだから」「皇国史観を想起させる」として外された。この読み札を赤く染め、箱の一番上に詰めるようにしたのは「せめてもの隠した反骨だった」という。
かるたは47年に完成し、48年2月に小中学生の第1回県大会が開かれた。会場の前橋市商工クラブに100人余が集まり、窓の外にも人だかりができた。当時の上毛新聞は「どよめく“郷土愛”」の見出しで、おかっぱと坊主頭の子どもが「ハアイッ!」「ありました!」と声を上げる様子を写真付きで伝えている。
あれから約70年--。西片さんは、介護施設でお年寄りが上毛かるたに興じるのを見ると、「当時の小学生かしら」とうれしくなる。そして、父が晩年に残した言葉を思い出す。「上毛かるたは故郷群馬に残せたたった一つの遺産だ。地域の子どもが健やかに育つよう、このかるたが永遠に続いてほしい」
—転載終わり—
戦後、上毛かるたをつくる運動の中心人物となった浦野匡彦氏は、ダム予定地である長野原町林地区の出身でした。
写真下=左岸からせり出し、吾妻川に竜が身を横たえているように見える天然記念物・川原湯岩脈の臥龍岩。
林地区久森(くもり)にあるので、かつては久森岩脈、あるいは林岩脈と呼ばれたが、天然記念物に指定される際、群馬県が当時の土地所有者(浦野氏)と熟議し、観光のために川原湯岩脈と名称変更。左手に旧街道の難所、久森峠があり、岩脈の上に造られた旧国道は、久森隧道を境にして川原畑地区に通じていた。
正面に、山懐に抱かれた旧・川原湯温泉が見える。いずれもダム湖に沈む。旧国道はダム事業のため、現在立ち入り禁止。2014年11月18日撮影