八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

「水源県 湖底に沈まぬ活気」(讀賣新聞群馬版)

2005年7月13日 讀賣新聞群馬版より

「水源県 湖底に沈まぬ活気」
 新緑の木々を縫い、狭い石畳の道が続く。道端にホタルブクロが紫色の花を咲かせていた。
 800年の歴史を持つ長野原町の川原湯。温泉街の沢のせせらぎはやがて、「関東耶馬渓」と呼ばれる名勝・吾妻渓谷に注ぐ。 「これから、まだ出て行くよ」。旅館の5代目主人、樋田省三(40)は、旅館や住宅を取り壊した跡が残る通りを眺め、つぶやいた。ただ、ため息に区切りをつけ、こうも付け加えた。
 「新しい川原湯は残った自分たちで作る。日本中どこにもない温泉街にしてみせる」
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 吾妻川をせき止め、川原湯を含め5地区を水没させる八ッ場ダムは、1952年に計画が浮上した。6都県で死者約1100人を出した1947年のカスリーン台風をきっかけに、矢木沢など利根川上流の5つのダムと併せ、治水と利水を目的に「首都圏の水がめ」を目指すとされた。
 だが、国側との交渉は最初から行き詰まった。
 「事前説明も相談もなく、建設ありき。人間味のないやり方に心底憤った」と、旅館経営の竹田博栄(75)は言う。
 「絶対反対」。屋根や壁には白いペンキが躍り、調査に訪れる建設省の職員は、体を張って追い返した。しかし、「条件闘争」に方針が変わる中で、地区住民に亀裂が入り、しこりも残った。
 ダム湖畔の代替地に集落ごと移転する「ずり上がり方式」による再建計画を住民側が受け入れたのは92年。代替地の分譲価格に折り合いが付いたのは今年5月。すでに12年以上。ダム完成までにさらに5年以上かかる。
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 先が見えず、旅館は立て替えもままならなかった。温泉街からの引っ越しが相次ぎ、最盛期に20軒あった旅館は13軒に、民家も約200戸から約70戸に減った。
 「皆もう疲れた。結局、国にはかなわねえってことだ」。ダム対策委員長の豊田治明(69)は、語気を荒げた。
 だが、樋田ら若手十数人は「青年フォーラム」を結成、代替地の街づくりの青写真を描き始めた。
 樋田が座長のまちづくり検討会は昨年4月から計15回。時に深夜に及んだ議論は、1枚の未来図に結実した。車を排除し、湯上り客がそぞろ歩きできるメーン通り、子どもが水に触れあえる水路・・・。「ゼロからの再建。ほかにないものを」。車の利便性を訴える人も説得し、地区総会の了承を取り付けた。
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 完成ダムが15を数える水源県。92年から工事が始まっていた戸倉ダム(片品村)は、水需要の減少などを理由に03年、建設中止が決まった。倉渕ダム(倉渕村)も同年、県が財政難などで建設凍結を打ち出した。住民たちが水に翻弄される歴史は今なお続く。
「僕らは生まれた時から『ダム』が生活の中にあった。故郷はダムの底に沈んでも、何年かけても再生させる」。樋田さんたちの奮闘は続く。(敬称略)

■水源県 八ッ場など建設中止の3ダムを合わせ、計18ダムの総貯水量は計約7億3200万立方メートルで、東京ドーム約590杯分に相当する。八ッ場は重力式コンクリートダムで、総貯水量1億750万立方メートル(東京ドーム87個分)。総事業費は約4600億円。国交省は2007年度の本体着工を目指している。