ヤフーニュースの特集記事で、長崎県の石木ダム問題が取り上げられました。
ダム予定地住民からのお知らせによれば、記者は今年の3月から7月まで現地で密着取材をされて、時には予算の都合上、ダムサイト予定地に立つ「ダム小屋」に宿泊しながらの渾身の記事とのことです。
バランスよく色々な方が登場しておられます。下記ページでは記事とともに動画や写真もご覧いただけます。
◆2018年7月26日 Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/feature/1023
ーここが沈むとは思ってない」 長崎県・石木ダム計画の問いー
「俺たちはここが沈むなんて思ってないからコメを作り続けてる」――。今年5月下旬、長崎県川棚町の川原(こうばる)地区。棚田に水を張っていた中島昭浩さん(55)はそう言った。ここでは今、石木ダムの工事が動き始めている。計画の浮上は半世紀以上も前のことで、「50年以上要らなかったのだからもう不要」と訴える住民の反対運動はやまない。一方、熊本県ではこの春、日本初のダム撤去工事が完了した。同じ九州での「新設」と「撤去」。二つの地域を歩きながら、公共事業のあり方を考えた。(笹島康仁、吉田直人/Yahoo!ニュース 特集編集部)
今年も変わらず田んぼに
田んぼに水を張り終えるころには、カエルが一斉に鳴き始める。こうして、また季節が進んでいくという。
「(カエルは)耳をふさぎたくなるくらい。うるせーって。でもね、鳴いてて当たり前。聞き慣れていると、心地いいよ」
棚田の傾斜は緩やかで、中島さんは一面、また一面と水を満たしていく。この田んぼも自宅も、ダムが完成すれば水没する。中島さんはそれに反対している住民の1人だ。
石木ダムを計画しているのは長崎県と佐世保市。大村湾に注ぐ川棚川の支流「石木川」流域で、周辺は県内屈指の米作地帯である。上流には棚田百選の一つ「日向の棚田」があり、ホタルが飛び交う清流としても知られている。
計画が持ち上がったのは1962年。半世紀以上の年月が流れてもダムはいまだ完成していない。いったい、こののどかな地域で何が起きているのだろうか。
次の動画では、県と住民の立場に加え、住民の暮らしぶりなどを収録した。
(動画)
県「急いで造らなくちゃいけない」
計画が浮上した当時、日本は高度経済成長の道をひた走っていた。隣接する佐世保市では、県が工業団地を造成。旺盛な水需要が予測されていた。石木ダムの目的も、中心は佐世保市の水源確保にあった。
現在の計画は、石木川を挟んだ山と山の間に高さ約55メートルの壁を造り、有効貯水量518万立方メートルのダムを造る、という内容。総事業費は約285億円に上る。
県河川課参事の徳永憲達さんは「長崎県内の河川は細く急なものばかりで、渇水になりやすい」と説明する。
石木ダムがあれば、貯水池などによる「安定水源」が足りていない佐世保市にとっては、水道の安定供給につながる。洪水対策でも、100年に1度の大雨にも対応できるようになるという。
徳永さんは言う。
「いまさら中止するわけにはいかない。住民の安心安全のための事業ですから。それに、既に8割(54世帯)の地権者が賛成してくれています」
横にいた河川課企画監の松本憲明さんも「急いで造らなくちゃいけないダムです」と言い切った。
住民「50年要らなかったダムです」
ところが、ダムはまだ本体工事に至っていない。
住民の石丸勇さん(69)は「50年間要らなかったんだから、いまさら造る必要性はないはず。必要ないダムの犠牲にはなりたくない」と言う。
住民の反対は、どんな経緯をたどったのだろうか。
過去の新聞報道などによると、1962年に県が初めて調査に入ると、住民の抗議で頓挫。その10年後、地元の代表者らと県が「工事をする場合は合意の上で行う」という覚書を結び、再び調査が始まった。
1974年に県が建設に動き始めると、住民側は「反対同盟」を結成して対抗。双方の折り合いはつかず、1982年には県が機動隊を伴って測量を実施した。
こうした中、土地を手放し、住居を移した人もいる。頑として譲らない人もいる。いま、川原地区の住民は13世帯、約50人。工事のある日は毎日、20人ほどが工事現場で抗議する。
かつては道をふさいだり、工事車両の前に座り込んだりしていたが、今は道の両脇に住民や支援者が並んで座る。その間を時折、工事車両が抜けていく。
住民たちの主張する「反対の根拠」はこうだ。
治水面では、石木川の流域面積は川棚川全体の約1割。川棚川の治水効果はそれほど高くない、ダムよりも河川改修のほうが重要、と主張している。
水の需要はどうか。佐世保市は過去から現在に至るまで、水道利用が高まると予測してきたが、実績は横ばい、あるいは低下が続く。工業団地になるはずだった場所には現在、レジャー施設「ハウステンボス」ができている。
住民の多くは「これから人口が減るのに使う水は増えるなんて、そんなことがあるのでしょうか」と口をそろえる。
「県に何度も裏切られました」
現地を取材していると、「行政への不信感」が聞こえてくる。
住民たちがよく口にするのが、1972年に交わされた「覚書」。ダムの適地かどうかを県が調査するに当たり、当時の地区代表と県との間で結ばれたものだ。そこには「建設の必要が生じた時は、改めて協議の上、書面による同意を受けた後着手する」と記されている。
住民の一人、岩本宏之さん(73)によると、現在始まっているダム周辺の道路工事は、覚書にあるような同意を受けたものではないという。
「私たちは何度も裏切られてきました。県(の姿勢)が信用できないんです」と岩本さん。
こんなこともあった。
2009年に約4500人分の反対署名を県に提出した際は、県は住所や氏名などの個人情報が載った署名簿のコピーを無断で佐世保市や川棚町に回したという。
15年には、県が深夜に重機を入れた。抗議行動をかわすためであり、話し合う姿勢を感じないと住民たちは思っている。
この点について、河川課の徳永さんは「合意という言葉の意味付けはいろいろあったかと思う」と前置きした上で、「合意というか、ちゃんとしっかり説明をして了解をもらって(工事に)入ったという認識です」と話す。
強制収用は2度目 最初は戦時中
そうした経緯をたどりつつも、県は完成を急いだ。2014年には一部の土地について、法に基づいて強制収用の手続き開始を告示した。ダム周辺の道路整備から工事にも着手している。
石丸さんは「川原が強制収用に遭うのは2度目です」と明かした。最初は太平洋戦争の最中。軍需工場建設のために田んぼを手放さざるを得なかったのだ、と。
「あの時代は大日本帝国憲法。(国民に主権はなく)抵抗することもできなかった。でも、今は日本国憲法です。変わったはずなのに、この川棚町では今の憲法が適用されません。私たちは普通の生活がしたいだけなのに」
町議「反対住民の気持ちは分かるが……」
大型公共事業では、「地元住民」と「行政」がしばしばぶつかる。住民同士の意見も簡単には一致せず、「誰の意見を、どう反映するか」が最も難しい。
石木ダムが建設される川棚町の議員たちは、どんな意見を持っているのだろうか。
今回の取材で、町議会事務局を通じて議員14人に調査票を送ったところ、5人から回答があった。「進めるべき」は4人、「中止すべき」は1人。「中止」と答えた久保田和恵さん(72)はこう記していた。
「何回も完成を引き延ばした事業が本当に必要なのか」「佐世保市の水は佐世保のダムの浚渫(しゅんせつ)工事や(水道管の)漏水対策を行うべきであり、他自治体の住民を犠牲にして水源を求めるべきではない」
「進めるべき」の4人の回答には「反対住民の気持ちは理解できるが、必要なダム」という言葉が並んだ。
その一人、村井達己さん(67)は「(土地を売却した)皆様は苦渋の選択をし、すでに故郷を捨て移り住み、一日も早いダム完成を望んでいる」「知事は難しいからこそ誠意をもって話し合いの場を作る努力が必要」と記した。
町議会で石木ダム対策調査特別委員長を務める田口一信さん(69)も推進の立場。1995年、2008年、13年と町議会が3度議決してきた「建設推進」の決議書の写しとともにこんな回答を寄せてくれた。
「地権者には正当な補償が行われるので、人権侵害には当たらない。田んぼの補償単価は通常の取引単価の数倍で、精米にして40年分くらいの金額。苦労して田んぼを作らなくても買って食べた方がよい状態になる」「反対運動が長くなって外部の関与が強くなり、地権者の方は自分の意思決定ができない状態になっているのではないかと思う。『もう終わりにしたい』というのが本当の気持ちだと思います」
「いしき」を支える
小さな地域の問題だった「石木ダム」はここ数年、全国からも注目されるようになった。アウトドア用品メーカー「パタゴニア」が反対運動の支援を表明したことが大きなきっかけだった。
パタゴニア日本支社長の辻井隆行さん(49)は、支援の理由を「環境汚染の9割はビジネスが原因とされる。僕らも主体者として責任を持つ必要がある」と説明する。同社は1993年以降、「川に悪影響を及ぼすダムの撤去」に世界規模で取り組んできた。
公開討論会の開催を求めるキャンペーン「#いしきをかえよう」には、音楽家の坂本龍一さんら著名人も賛同。辻井さんが自ら表に立ち、イベントに出演したり、賛同者を集めたりしてきた。
「日本の公共工事では、経済合理性が度外視され、『本当に必要か』『規模は適切か』が冷静に議論されない。多額の税金が使われるし、水を使う佐世保市民だって建設費が水道料金に上乗せされる。議論が十分だったか疑問です」
辻井支社長は続ける。
「日本には、政治に口を挟まない雰囲気がありますよね。みんながわーわー言うとまとまらないから議会で代表者が話し合うけれど、本来、その後ろでは、市民がわーわー言っていることが前提です。自分はどう思うのかを口に出すのが民主主義の始まり」
「故郷がなくなることに諸手を挙げて賛成する人はいませんよね。それなら、周りの人ができることは、一回立ち止まって、本当に必要かどうかを議論することです。そうやって、誰もが納得する税金の使い方を決めていく」
キャンペーンを続ける中、思わぬ人から寄付をもらった経験もある。石木ダムの建設に関わる事業関係者だったという。
「少なくない金額でした。『家族もいるから、大っぴらに言えないけれど、一人の人間として、誰かの故郷を強制的に奪うことに心が痛む』と。みんなが幸せになれる方法は、必ずあると思っています」
公共事業の議論、理想の形は?
反対の声が広がってきたとはいえ、一度始まった公共事業はなかなか止まらない。ただ、同じ九州には「日本初のダム撤去」という実例がある。
熊本県八代市の荒瀬ダム。アユの遡上で有名な球磨川の中流にあり、戦後の電力需要を賄うため、熊本県が1955年に造ったダムだ。撤去の完了はこの3月。日本には約2700基の本格的なダムがあるが、撤去は他に例がない。
ダムができて逆に水害が増えた、球磨川の代名詞だったアユが姿を消した……。ダム撤去に向けては数十年に及ぶ議論があった。
2010年に愛知県から夫妻で移住してきた溝口隼平さん(36)は球磨川のそばで「見てください。川に流れが戻っているでしょう? 思ったより回復力が強くて驚きます」と話した。
東京大学の研究所などで「ダム撤去」の研究を続けてきた。日本で初めてダムが撤去される地に住むと決めていたといい、今は自身で会社「Reborn」を立ち上げ、リバーガイドとして働いている。
「ダム建設はあちこちで住民の対立、分断を生んでいます。ところが、『撤去』となると、人と人、人と川との関係が結び直されていく。再生するのは『自然』だけじゃないんです」
溝口さんは「必要なダムもある」という立場だ。それは「議論の過程が何よりも大事」という姿勢と矛盾しない。
「全員の意見一致は難しい。大事なのは、話し合いに嘘がないこと。これは、公共事業すべてに言えます。本当に必要か、その方法じゃないとダメなのか。それらが、嘘なく、簡潔に、オープンに行われればスムーズに進むはずです。建設費がかさめば、将来の負債にもなる。そういった一つ一つを考え、必要となった時に造るのがいい」
「例えば、ライト兄弟が空を飛ぶまで、誰も空を飛べるなんて思っていなかった。だけど、飛べると分かると、あちこちで空を飛ぶ人たちが出てくる。ダムも同じです。『撤去』という選択肢ができた。この動きは広がると思います」
「いしき」の署名は3万超
石木ダムの「#いしきをかえよう」で公開討論会を求める署名は、この6月末で3万2千筆を超えている。
住民の一人で、イラストレーターの石丸穂澄さん(35)も「知事と話したい」と討論会の開催を求めている。
「非公開の議論だと、どう利用されるか分からない。あくまで公開の場で、一般の方が見届けられる形で話したい」
討論会について県の見解を尋ねると、河川課の徳永さんはこう言った。
「集団だと、皆さんが『わーわーわーわー』言って進まない。(こちらの)話を聞いてもらえない。知事も公開の場では言葉を選ばざるを得ず、腹を割った話ができません。私たちは一貫して、『個別、非公開だったら、いつでも応じます』と言ってきました」
裁判で住民側は敗訴 弁護団長は……
この7月9日には、住民らが国を相手取った裁判の判決が長崎地裁であった。ダムを造る必要性はなく、土地収用の手続きも民主主義に反しているとして、事業認定の取り消しを求め、2015年に起こされた訴訟だ。
一部の農地はすでに収用され、法的な所有権は国に移っている。しかし、残りの農地や住民らの家屋については、まだ収用には至っていない。事業認定は、強制収用の前提となる重要な手続きだ。
裁判所は判決で、石木ダムの公共の利益を認め、「住民が移転によって失われる利益は大きいとはいえない」とし、住民側は敗訴した。
県河川課の浦瀬俊郎課長は判決後、「必要不可欠な事業なので、関係者には判決の内容を理解していただきたい」と語った。
判決後に県庁を訪れた原告弁護団長の馬奈木昭雄さん(76)は、河川課の職員らにこう問い掛けた。
「(県は)事業を絶対やる。こっちは絶対反対、一歩も立ち退かん。そしたら強制収用せざるを得ない。想像してください。もし強制執行したら、どういう光景が展開されるか。家の中に踏み込んだ、おばあちゃんが仏壇に寄りすがっている。職員はどうするんでしょうか? 寝たきりのお年寄りを布団ごと担ぎ出すんですか。想像の限りを尽くし、真剣に考えて、知事と相談してください」
笹島康仁
1990年、千葉県生まれ。高知新聞記者を経て、2017年からフリー。
吉田直人
1989年、千葉県生まれ。2017年にフリーランス・ライターとして独立。