鉱毒による環境破壊、人権蹂躙が”わが国の環境問題の原点”ともいわれる足尾銅山。群馬県の地元紙、上毛新聞が朝鮮人や中国人の強制労働に焦点を当てた記事を掲載しています。足尾銅山は栃木県にありますが、鉱毒が栃木・群馬両県の県境を流れる渡良瀬川を汚染したことから、群馬県にも大きな影響を与えています。
足尾銅山における強制労働の問題については、すでに今年8月に共同通信が取り上げており、同じ内容の記事が今月の毎日新聞栃木版や、他の地方紙でも取り上げられています。
◆2025年12月20日 社会面
ー足尾銅山 鉱毒の陰に強制労働 記念館にない「負の歴史」ー
かつて日本一の銅の産出量を誇った栃木県日光市(旧足尾町)の足尾銅山。群馬県などに甚大な被害を生んだ鉱毒事件で有名な一方、太平洋戦争中に外国人が強制労働させられた「もう一つの負の歴史」はあまり語られてこなかった。銅山を運営していた古河機械金属(旧古河鉱業)などが今年新設した「足尾銅山記念館」でも、関連展示はない。
厚生省(現厚生労働省)が戦後にまとめた資料を分析した古庄正・元駒沢大教授の研究によると、1940~45年に朝鮮人計2416人が足尾銅山に動員された。また、「日朝友好栃木県民の会」は町役場や寺の火葬記録から、73人の朝鮮人犠牲者の名前を確認した。
銅山跡付近には、強制労働の歴史を今に伝える二つの碑がある。一つは73年に完成した「中国人殉難烈士の慰霊塔」。高さ13メートルの石碑で、亡くなった110人の名前が彫られている。
もう一つは、朝鮮人犠牲者を弔う墓標。県民の会が石を寄せ集めて造った簡素なもので、木の板にハングルで「この土地へ刻まれたつらい歴史を忘れないように」と書かれている。犠牲者73人の名前を記した名盤は朽ち果て、戦後80年の今年7月の法要で新調した。
古河機械金属などは今年、旧足尾町に「足尾銅山記念館」を開いた。創業者の業績や、銅山の掘削機械などを紹介。鉱毒汚染や煙害、それを技術で克服したとする歴史を展示する。一方、強制労働に関する記述はない。同社は「創業した明治、大正時代の歴史を伝える目的のため、昭和期や戦時中の内容は対象にならなかった」としている。
この銅山と本県の関わりは深い。明治時代以降、銅山からの坑排水などにより、渡良瀬川流域が汚染されてきた。県によると、1958年には精錬で発生した副産物などを貯留する「源五郎沢堆積場」が崩れ同川を汚染。下流の住民らが「渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会」を結成し、公害防止運動が盛り返した。71年には、太田市毛里田地区のコメからカドミウムが検出され、被害住民らが古河鉱業を相手に損害賠償を求める調停に発展。現在でも毎年、市民らで作る「渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会」が日光市内の銅山関連施設を視察する「山元調査」を続けている。
足尾銅山
16世紀には採掘が始まっていたとされ、明治期に古河鉱業(現古河機械金属)創業者の古河市兵衛が運営し、日本一の銅の産出量を誇った。銅山が排出した鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、下流まで広範囲を汚染。「日本初の公害」と呼ばれる。太平洋戦争中、植民地の朝鮮半島や、交戦国の中国、米英、オランダの捕虜らを動員し働かせた。1973年閉山。
◆2025年8月11日 共同通信
https://news.yahoo.co.jp/articles/cc4730e6dd1e849489f314f92210d0139f105706
ー鉱毒事件だけじゃない―記念館も伝えない「足尾銅山、もう一つの影」 ひっそりと立つ墓標の意味は【戦後80年連載・向き合う負の歴史(15)】ー
かつて日本一の銅の産出量を誇り、1973年に閉山した栃木県の足尾銅山。排出された鉱毒により、周辺地域に甚大な被害をもたらした日本最初の公害問題で有名だ。
銅山を運営していた古河鉱業(現・古河機械金属)は今年創立150年を迎え、今夏、日光市に「足尾銅山記念館」をオープンする。展示は「足尾の光と影」と銘打ち、公害と、公害を「克服」した技術発展の歴史を強調する。
だが「影」は公害だけではない。太平洋戦争中、銅山では連合軍捕虜や中国人、朝鮮人が強制労働させられた。地元ではどう語られてきたのか、あるいは語られなかったのか。(共同通信=市川太雅、宮脇奈月子)
▽鉱山城下町・足尾
日光東照宮などの世界遺産で知られる栃木県日光市の中心から、車で約30分。長いトンネルを抜けた先、周囲を山に囲まれた小さな集落が、旧足尾町(現日光市)の中心部だ。
足尾町は、明治時代に急速に産出量を伸ばした銅山と共に発展した。銅山や関係産業の労働者、その家族などでにぎわい、人口は1916年に4万人弱のピークを迎えた。
しかし戦後の1973年に閉山してからは、みるみる人口が減り、2025年7月時点で暮らしているのは約1200人だ。
▽「朝鮮人の長屋がずーっと」
戦時中、金属需要の高まりに合わせて増産を目指す中で、労働力として動員されたのが外国人だった。当時植民地だった朝鮮半島の一般人や、交戦国の中国、アメリカ、イギリス、オランダなどの捕虜たちだ。
朝鮮人が住まわされていた地区を案内してくれたのは、元足尾町議会議員の上岡(かみおか)健司さん(92)。「この道の両側に、朝鮮人の長屋がずーっと並んでいたんです」
足尾に生まれ育ち、古河鉱業に勤めた。労働組合活動を理由に解雇され、町議に転じた。
上岡さんによると、朝鮮人にあてがわれたのは、冬に日の当たらない場所や、職場である坑口から遠い地域、製錬所に近く煙のひどい地区など、条件の悪い場所ばかりだったという。
長屋のあった場所は現在、土台の石垣が残るのみで、建物は跡形もない。中国人や欧米人捕虜の収容所があったエリアも、当時の面影を残すものは何一つ見つからなかった。
▽犠牲者は73人
戦後に厚生省(現・厚生労働省)がまとめた資料を分析した元駒沢大学教授の古庄正氏の研究によると、1940~45年に朝鮮人計2416人が足尾銅山に動員された。うち31人が死亡したと記されている。この死亡率について古庄氏は、ガス爆発があった他県の炭鉱などと比べても、極めて高率だと指摘している。
市民団体「日朝友好栃木県民の会」などによる調査では、足尾町役場や寺院の火葬記録から、労働者の家族も含め全部で73人が犠牲になったと氏名を確認している。
▽中国人慰霊塔
過酷な環境で命を落とした人々を弔おうと、戦後、銅山周辺に慰霊碑を建てる動きが起こった。
「中国人殉難烈士慰霊塔」は、閉山と同じ1973年に完成した。前年に中国との国交が正常化され、友好の機運が高まる中で栃木県が主導した。高さ13メートルの立派な石碑で、裏側に足尾で命を落とした110人の名前が彫られている。
▽風化した墓標
朝鮮人を追悼するものとしては、銅山の脇に小さな墓標がひっそりと立つ。前述の日朝友好栃木県民の会が中心となってつくったもので、かつて朝鮮人労働者が多く暮らした地区の木立の中にある。
墓標は石を寄せ集めて作った簡素なもの。横に木の板が立てかけてあり、ハングルで「この土地へ刻まれたつらい歴史を忘れないように」と書かれている。板は風化のせいか根元が削れ、文字が消えかかっていた。
上岡さんは町議時代、議会の質問で「朝鮮人の慰霊碑も建てるべきだ」と主張したことがある。一時町も動き出したが、地元の土建会社が反対したこともあり、頓挫した。
▽「日本人が何をしたか」
この墓標の前で、戦後80年、植民地「解放」80年となる今年も7月に法要が営まれた。栃木朝鮮初中級学校(小山市)や在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)などから約60人が参列。遺骨返還に取り組む韓国の団体関係者も来日して参加した。
主催した県民の会の宇賀神文雄会長(78)は「73人の名前を思い出し、われわれ日本人が朝鮮に何をしたかを反省したい」とあいさつした。
県民の会は1997年、犠牲者73人の名前を記した木製の銘板を墓標に設置していたが、すでに朽ち果てていた。今年の法要で、名前に享年も書き加えたアルミ製の銘板に新調した。
▽「公害克服」強調
そんな中で2025年8月8日、足尾の中心部に、西洋風建築の大きな施設がオープンする。古河機械金属が建設した「足尾銅山記念館」だ。
創業者で銅山を開発した古河市兵衛の業績や、銅山で使われた掘削機械などを紹介。「足尾の光と影」を掲げて、鉱毒汚染や煙害の拡大に触れつつ、防止技術の開発で公害を「克服」してきた歴史を強調した。
日光市も、人口減が進む足尾で新たな観光スポットになると期待している。
記者は4月のメディアへの事前公開で記念館の展示を取材した。だがそこに、強制労働に関する記述は、なかった。
古河機械金属に理由を尋ねたところ、こう回答があった。「記念館は会社が創業した明治から大正時代の歴史を伝える目的で造っているため、昭和期や戦時の内容は対象にならなかった」
約1キロ離れた銅山跡地には、トロッコで坑道に入り見学できる人気施設「足尾銅山観光」もあるが、同様に強制労働への言及はない。
記念館を見学した上岡さんはため息をつく。「都合のいいことしか書いてないね」。古河城下町の足尾では長く、「古河の悪いことは言えない」という空気がまん延していたという。
▽猫が語る足尾
記憶の風化にあらがう人もいる。
なじみのある花札のデザインの中で、愛らしい猫たちが炭鉱や製錬所で働く。銃を持った兵士の猫に、労働者の猫が襲いかかる絵もある。今年5~6月、東京・六本木のギャラリーで開かれた個展「猫の足尾銅山―光と闇」の作品だ。
埼玉県春日部市の美術作家・竹川宣彰さん(47)は、足尾の強制労働の歴史を絵で伝えようと試みた。日本による植民地時代に伝わり、今も韓国で遊ばれている花札「花闘(ファトゥ)」がモチーフだ。「朝鮮人労働者が、仕事の後に遊んだだろう」と選んだ。
カラフルな絵札の中に、古河のマーク入りのヘルメットをかぶった猫たち。札の字はハングルだ。ギャラリーの中央にある立体作品は、足尾銅山記念館の建物を縮小した形。朝鮮人犠牲者73人の名前を周囲に書き込み、慰霊碑とした。
制作の原動力について、竹川さんは危機感を語る。「産業発展に貢献した『光』の部分が強調され、強制労働の歴史がなかったことにされるのではないか」
猫たちが足尾の闇を代弁していた。
◆2023年10月2日 朝日新聞
https://digital.asahi.com/articles/ASRB17HLJR9XUUHB00D.html
ー「真実にできる限り迫る」 足尾銅山で亡くなった朝鮮人の追悼式開催ー