八ッ場あしたの会では、2007年11月4日、シンポジウム『ダムに負けない村―八ッ場から地域の再生を考える―』を星陵会館(東京都千代田区永田町)で開催しました。
冒頭で約10分、加藤登紀子・川原湯コンサート(2007年5月11日)のビデオを上映後、現地の状況を説明。
◆加藤登紀子さん(歌手・国連環境計画親善大使)―
「今、八ッ場で起きていること、その主人公である、現場に暮らしている人たちのことを伝えたい。なぜなら、そこには私たちが生きることの本質に迫ることがあるから。
八ッ場の人たちは、20年前に闘い疲れ、ダム受け入れの調印をしてしまった。それからの彼らは、ダムが早くできて、自分たちの未来が開けることを願ってきた。旅館の若旦那は今、国に対して、自分たちの運命に対して怒りでいっぱいだ。
今年5月、川原湯でコンサートをやった。川原湯の男の人たちは悩みぬいた。コンサートはやりたいけれど、登紀子さんのバックには八ッ場あしたの会があるでしょう?
コンサート直前になって、ようやく地元で実行委員会ができた。国からお金を貰わずにやるイベントは、何十年ぶりという。新緑に包まれた川原湯はすばらしかった。
ダムを受け入れざるをえなかった彼らにすれば、ダムの不要性など、とうに知っている話。それでも改めて、今、未来に対する具体的な損失を考えなければと思う。地元の方々が、あのかけがえのない川原湯温泉を守り、再生する地点にシフトする日がくることを願っている。」
◆石川理夫さん(温泉評論家)―
「吾妻川流域は、日本でも有数の温泉地を抱える地域。草津、四万…川原湯温泉もその一つ。最近は、地下1000メートル以上ボーリングした温泉が各地にあるが、自然湧出の温泉とは別ものといってよい。川原湯の旧源泉は、全国レベルで見ても非常に泉質の高い、貴重な源泉。地元の方々には自信をもってアピールしていただきたい。
温泉の所有は、本来は入会的な総有の形態をとるが、ダムによって代替地移転となると、それがバラバラになり、川原湯温泉街の存亡に関わると危惧する。何百年と保ってきた総有の形態を保つことが、川原湯温泉を守ることになる。」
◆関口茂樹さん(群馬県会議員)―
「私が町長を務めた鬼石町(現在は群馬県藤岡市に合併)には、約40年前に”首都圏の水がめ”、下久保ダムができた。ダムの固定資産税が地元に落ちたが、減価償却で年々減る。それと引き換えに、地元は大きなダメージを受け、ダム直下の渓谷は変わり果てた。吾妻渓谷にコンクリートの塊を入れたら、同じことが繰り返されるのではないだろうか?
八ッ場ダムの半世紀以上の時間を元に戻すことはできないが、今からできることは決して少なくない。必要のないダム建設は、すぐにも中止すべきだ。国の都合で犠牲となってきた地元の苦悩を償うために、国は法整備に取り組んでほしい。群馬県議会だけでなく、志を同じくする関係一都五県の議員、国会議員の方たちと連携し、国民の理解を得る努力をしていきたい。」
◆矢上雅義さん(川辺川ダムサイト予定地村長)―
「川辺川ダム計画の最初は1953年。電源開発が目的だったが、採算が合わないと中止になり、66年、治水ダムとして再浮上。その後、利水、発電も目的に加わった。相良村がダム反対を表明したのは昨年。
最初の計画から50年たってできないダムは、国が言うような必要性がないということ。ダムは今の大人だけでなく、将来世代に影響することだから、責任を追及される政治家が今、決断すべき。
ダム事業は相良村の人々に、ダム計画に参加すれば、国がなんでもタダでやってくれるという間違った心を植えつけた。だが国は、何もしてくれない。水没予定地の五木村では、先日の村長選挙で、立候補者全員が”ダムに頼らない村づくり”を掲げた。おそらく八ッ場ダムも、これから計画が変わっていくだろう。ダムをもとに将来設計を立てている人は、裏切られることになる。
官僚はダム関連工事から裏金をつくり、水没予定地を切り崩してきた。裏金の痕跡は官僚の天下りに見られるだけだ。だが、かつてのように国家権力を恐れる必要はない。国交省は防衛省と同様、シビリヤン・コントロールが必要だというのは、時代の趨勢だ。」
◆大西暢夫さん―
「岐阜県の徳山ダムは、私が育った揖斐川の上流に造られた。子供の頃は、日本最大規模の建造物ができると誇らしかったが、中学時代に一本の映画を見て、ダムに対する考えが変わった。
水没住民には補償金が出るというが、徳山ダムでも苫田ダムでも、引っ越した先で自殺する人、生活破綻する人が数多くいる。ダム完成後の水没住民の状況を国はフォローしていない。マスコミも、ダムによる人々の犠牲を本当に伝えているとはいえない。
ダム問題は難しい数字が多く、わかりにくいと言われる。いかにわかり易くダムの犠牲を伝えるかを考えながら、映画をつくってきた。」
◆保母武彦さん(島根大学名誉教授・財政学)―
「日本の大型公共事業は、退くことを知らず、前に進むのみと言われてきた。しかし、今は転換の時代。島根県の中海は、干拓事業1000億円のうち、851億円を投じたが中止になった。八ッ場ダムも転換の可能性は大いにある。
私が住む島根県は、国の政策に従い、沢山の公共事業をやってきた結果、1兆円の借金を抱えている。三位一体の改革で潤ったのは東京など、ごく一部だけ。他の多くの地方が苦しんでいる。
中海では、昭和40年代に漁民が補償金を受け取ってしまったが、長い歳月苦しんだ結果、補償金を国に返しに行った。島根県議会は賛成派が多かったが、反対の世論が状況をひっくり返した。
長野原町役場は、八ッ場ダムの関連事業で歳出が増える一方、住民が減少して町税が減少し、地方交付税も減ってきた。この地域を自分たちの世代で潰してよいと考えるか、あるいは長い歴史のある地域を後の世代に残したいと考えるか。川原湯の観光協会、集落の方々が真剣に話し合う時にきている。国、県に責任があるのはもちろんだが、長野原町、町議会にも責任がある。ダム頼みの町政をこれからも続けるかどうか、判断するべき。」
国会議員の皆さんも参加。大河原雅子参院議員(民主党)、塩川てつや衆院議員(日本共産党)、田中康夫参院議員(新党日本)、日森文尋問衆院議員(社民党)
最後に「八ッ場ダム事業の見直し」と「生活再建・地域再生を可能とする法整備」を国に求めるアピール文を採択。国会請願の署名活動をスタート。
~石川理夫(いしかわ・みちお)~
1947年仙台市生まれ。東大法学部卒。温泉評論家・プランナー。著書に、『温泉法則』(集英社新書)『温泉で、なぜ人は気持ちよくなるのか』(講談社プラスアルファ新書)『山歩きで楽しむ本物の温泉』(宝島社新書)『温泉巡礼』(PHP研究所)など。あしたの会アドバイザー。
~大西暢夫(おおにし・のぶお)~
1968年東京生まれ岐阜県育ち。映画『水になった村』全国上映中。著書に『僕の村の宝物』(情報センター)、『分校の子供たち』(カタログハウス)、『おばあちゃんは木になった』(ポプラ社、日本絵本賞受賞)、『ひとりひとりの人― 僕が撮った精神科病棟―』(精神看護出版)
~加藤登紀子(かとう・ときこ)~
1943年中国ハルピン生まれ。「ひとり寝の子守唄」、「知床旅情」で日本レコード大賞受賞。92年仏政府より芸術文化勲章「シュバリエ」受賞。2000年国連環境計画(UNEP)親善大使に任命される。06年「加藤登紀子と仲間たちが唄う 八ッ場いのちの輝き」開催をきっかけに発足した八ッ場あしたの会代表世話人。07年5月、川原湯温泉で無料コンサート開催。
~関口茂樹(せきぐち・しげき)~
1946年群馬県生まれ。86年~06年、鬼石町長。ダム所在市町村全国連絡協議会会長を務める。利根川水系下久保ダムを抱える鬼石町長として、1998~99年、上毛新聞に八ッ場ダム事業に疑問を投げる投稿文「渓谷は子供たちのもの」などを寄稿。07年4月より群馬県議。
~保母武彦(ほぼ・たけひこ)~
1942年岐阜県生まれ。大阪市立大大学院経営学研究科博士課程修了。島根大学名誉教授。(財)宍道湖中海汽水湖研究所理事長。専門は財政学、地域経済論。著書に『内発的発展論と日本の農山村』(岩波書店)、『公共事業をどう変えるか』(岩波ブックレット)、『夕張破綻と再生 財政危機から地域を再建するために』(自治体研究社)など。
~矢上雅義(やがみ・まさよし)~
1960年熊本県生まれ。93~00年衆院議員を二期務める。01年より、ふるさと相良村の村長。川辺川ダムサイト予定地、相良村のリーダーとして、2006年11月、川辺川ダム反対を表明。ダムによらない利水・治水・環境を提言。新たな村づくりに取り組む。
~前田和男(まえだ・かずお)~
1947年東京生まれ。東大農学部卒。ノンフィクション作家、翻訳家、編集者、路上観察学会事務局として活動する傍ら、編集企画会社、同文社経営。通称”一人電通”。著書に『足元の革命』(新潮選書)、『選挙参謀』(太田出版)、訳書にオグ・マンディーノ『ことばの魔術師からの贈り物』、オーレン・ハラーリ『パウエル リーダーシップの法則』など。あしたの会運営委員。
アピール 「八ッ場」発 全国各地に”ダムに負けない村”を!
日本の国土は、その3分の2が緑豊かな森に恵まれた上流地域です。私たちの祖先はそこから暮らしの糧を得て、孜々営々と命を紡ぎ、命を繋いできました。そこに今、「地域崩壊」という妖怪が徘徊し、「上流」は喰い潰されようとしています。
その妖怪たちの最大の活力源は巨大ダム建設です。ダムは水没予定地の人々に多大な犠牲を強いながら、上流の山村も下流の都市をもうるおす”一石二鳥の上策”というお題目のもと、日本全国の中山間地で建設が推し進められてきました。1952(昭和27)年に計画された、首都圏最後の巨大ダム事業、八ッ場ダムはその象徴的存在です。
しかし、ダムは、お題目どおり、本当に上流も下流もうるおしたのでしょうか? その答えは、半世紀にわたる苦渋に満ちた八ッ場の歴史が教えています。ここ八ッ場にもついに、「地域崩壊」という妖怪が徘徊しはじめました。川原湯温泉をはじめとする水没予定地では、住民らがダム計画に翻弄されながら温泉街の再生をめざしてきましたが、いまだに未来が見えません。このままでは、800年の歴史を誇る川原湯温泉は、豪壮で知られる湯かけ祭りをはじめとする祭礼の維持すら難しくなるのではないか、と危ぶまれています。
一方で八ッ場の「地域崩壊」は、日本の人口の1/4をしめる首都圏約3000万人の下流の人々にとっても、深刻きわまりない問題です。上流の人々がそこに暮らしているからこそ、豊かな環境も美しい景観も守り育てられているからです。上流の人々の営みが失われてしまっては、やがては下流の営みも干乾びます。上流を喰い潰した妖怪たちは、やがては下流にやってきて、町を、都市を、喰いつぶすことでしょう。
本日のシンポジウムで明らかになったのは、このまま八ッ場の「地域崩壊」を許せば、取り返しのつかないことになるということです。しかし、今ならぎりぎりまだ間に合う。今こそ私たちは、上流と下流が繋がり支えあう「共生の道」を探らねばなりません。八ッ場を「地域崩壊のシンボル」から「地域再生のシンボル」へ反転できれば、それは必ずや、日本全国の地域に活気を呼び戻す、確かなきっかけとなるでしょう。そのために、本日共有された「想い」と「希い」をこめて、「上流と下流の共生」へ向けて、一歩を踏み出そうではありませんか。
ここに私たちは、八ッ場ダム事業の見直しと、水没予定地域再生のための法整備を求めます。今こそ「八ッ場」からスタートし、全国各地に、”ダムに負けない村”を広げていきましょう!
2007年11月4日
シンポジウム「ダムに負けない村―八ッ場から地域の再生を考える」参加者一同