代替地分譲基準の交渉が始まったのは、一昨年末。補償基準が合意に至ってから2年余が経過していた。本来であれば、ダム計画の最初になければならない住民の生活再建問題が、最後まで解決されないまま、現在まで持ち越されている。
地 区 | 川原畑 | 川原湯 | 横壁 | 林 | 長野原 | 計 | |
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世帯数 | 契約済 | 58 | 126 | 11 | 23 | 13 | 231 |
うち移転済 | 53 | 114 | 7 | 17 | 7 | 198 |
国土交通省が公表した上の資料は、今年2月末時点で、地区外に流出した戸数(移転済み)、移転予定の戸数(契約済)を示す。当初の予定では、水没予定地の住民はとうに代替地に移転する計画だったが、代替地の造成は大幅に遅れている。道路、トンネルなどの付帯工事が着々と進められる中、早く生活再建のメドを立てたい住民は、2001年の補償基準調印後、次々と下流の町などに移住していった。
計画当初、340戸あった戸数は、100戸余りにまで減少。全水没予定の川原湯、川原畑では交渉が難航した。国交省が値下げの要望に応じないことが明らかとなった3月、川原畑地区は分譲基準に合意すると公表した。これ以上交渉を続けても、代替地への移転が遅れるだけ、という住民の不安が背景にあったといわれる。
現地再建をうたった「地域居住計画」が発表された2年後の1992年、川原湯では、温泉の若手旅館経営者らを中心に「川原湯青年フォーラム」が発足。昨年4月、フォーラムのメンバーらを中心に、ダム対策委員会の専門部として「川原湯地区まちづくり検討会」が組織され、今年2月、「新川原湯(打越地区)まちづくりプラン」が地区でも承認されている。
現地再建に意欲を燃やしてきた温泉街の代替地価格が、他地区から突出して高い理由を、国交省の「川原湯つぶし」と見る人もいる。標高600メートルを越える北斜面の代替地を取得するために、土地所有者は補償金のかなりの部分を支払わなければならない。補償金をあまり期待できない借地・借家層が代替地での生活再建を考えるなら、金融機関から資金を借り入れる必要がある。
全国のダム建設地では、補償金で”ダム御殿”が建った例もある。熊本県の川辺川ダム計画では、最大規模の頭地(とうち)代替地の坪単価が約4万6000円。但し、五木村の助成で100坪までは坪一万円で購入できる*。だが、財政事情の厳しい折から、こと八ッ場に関して、財務省の財布の紐は固い。
* 『巨大ダムに揺れる子守唄の村ー川辺川と五木の人々』熊本日日新聞社、新風舎文庫
国土交通省は、マスコミを通じて代替地分譲を今年度中に始めると発表した。ダムの完成予定は2010年度。
けれども代替地の現状が、まだライフラインも未整備で、居住可能な状態から程遠いことを考えれば、代替地計画が予定通り進むとは考えにくい。温泉街の代替予定地では、まだこれから山を切り崩し、盛り土をしなければならない所もある。
国交省の対応について、嶋津暉之氏(八ッ場ダム住民訴訟原告代表)はこう語る。
「 代替地の造成費用そのものは基本的にはダム建設事業費には入っておらず、一般の宅地分譲と同様に、分譲の収益で造成費用を出すことになっているので、国交省は希望者の確定→代替地の面積の確定を急いでいるわけです。」
川原湯を中心とした地元の反対闘争は、かつて全国的に知られたが、同時期に世間の関心を集めた成田闘争と違い、外部との共闘をかたくなに拒み続けた。V字谷の川沿いに長年暮らしてきた人々は、もともと温和で、争いごとを好まず、”生活のため”に止むに止まれぬ闘いを強いられた。
~ダム反対闘争当時、水没予定地の農婦が訴えた言葉から~
「私達の所は、すぐ後ろから切り立ったような山ばかりで、引き上がって農業を営むことはできません。かといって遠い昔から続いてまいりました、この静かで清らかな郷土と、そして一軒の家のようにまとまって何代も仲良く助け合って暮らしてきた隣近所の人たちとも別れ別れてどこかへ転生の地を求めてちりぢりに出て行くなどということは、何よりつらいことでございます。」
(1967年、八ッ場ダム建設絶対反対総決起大会記録より)
納税者としてダム事業に向かい合っている下流の住民と、生活の隅々までダム事業が溶け込んでしまっている現地の人々とでは、おのずから立場がちがう。ダムによる自然破壊は目に見えるものだが、住民の精神的苦痛は目に見えないだけに、外部の者の誤解をまねきやすい。
現地の事情を考えれば、ダム問題は解決を先に延ばせば延ばすほど、住民の犠牲を大きくしていく。今後、ダムの中止が視野に入ってきた場合、長年ダム計画に翻弄されてきた住民への個別補償も含め、疲弊しきった地域再生にこそ税金を投入する政治判断を強く求めたい。水没予定地は、川原湯温泉、農山村、自然林、吾妻渓谷・・・どれをとっても、公金を支出して保全する価値のある”日本の内ぶところ”(阿部知二)なのだから。
吾妻川の渓谷に入ったのは、梅の花が咲き、木々がかすかに芽ぐむ、浅春の日であったが、谷全体が、「日本の内ぶところ」とでもいいたいような、心あたたまる趣のあるところだった。新緑、紅葉、その他それぞれの季節の美しさを、十分に想像させる。自然詩人若山牧水が、この谷を愛し、わけても川原湯を愛したことは、まったく当然であったと思われる。
―(略)―
宿のめぐりは、樹林、断崖、渓流、そして遠近の山脈の眺めであって、飽きさせない。じつにすがすがしい感じである。泉質は透明にして、なめらかである。じまんの鯉こくに舌つづみをうちながら、心しずかに杯をあげた。