6月14日に撮影した写真と共に、現地の状況をお伝えします。
しかし、渓谷入口には、川原湯温泉の看板を威圧するようにセメントタンクが聳えたち、水位が下がれば、再び工事が始まるでしょう。
このほど八ッ場ダム事業によってダム予定地を走る吾妻線の切り替えが今年9月から10月にかけて実施されることが発表されたこともあり、吾妻川にまたがる鉄橋を走り抜ける吾妻線をレンズで捉えようと、多くの観光客が同地を訪れています。
一方、水没予定地の川原畑地区・西宮遺跡では天明3(1783)年の浅間山の大噴火によって発生した泥流に押しつぶされた集落の発掘調査が行われています。一昨日は発掘調査を行っている群馬県埋蔵文化財調査事業団が地元住民を対象とした現地説明会を行っていました。
斜面につくられた西宮の集落は、おびただしい石垣によって整地されていたようです。下から遺跡を眺めると、石垣の迫力に圧倒されます。(写真左下)
かつて上州と信州の往還路であった信州街道支道、いわゆる真田道の街道筋にあった川原畑地区は、長年のダム事業の犠牲によって今でこそ20世帯足らずの小さな集落になってしまっていますが、江戸時代から明治時代にかけては、この地域の中心的な集落でした。
長野原町誌には、明治時代、群馬県会議員を6期つとめた野口茂四郎氏は川原畑の財閥の出身と紹介されています。吾妻渓谷沿いの道(現在の国道145号)は野口氏が私財を投じて開削したことから、野口新道と呼ばれました。
発掘調査によって明らかになりつつある天明三年の川原畑村は、貧しかったとされる当時の山村のイメージを覆すものでした。貨幣経済の流通に加え、周辺の自然環境に恵まれた当時の村人の心豊かな生活が、皮肉なことにこの土地を沈める八ッ場ダム事業によって蘇ろうとしています。
西宮遺跡の東側には、やはり天明浅間災害遺跡として注目を集めている東宮遺跡があります。二つの遺跡は小さな境沢の東西にあり、隣接しています。湧き水のたえず流れていた東宮遺跡では床板まで残されていましたが、水の少なかった西宮遺跡では木材は残っていません。しかし、丹念な発掘調査によって、地面に残された痕跡から、板の間の跡、厠の跡、泥流に押しつぶされた土壁の跡までわかってきています。
石垣に残された土壁の跡と礎石の位置から、泥流は下流から押し寄せて、住居を山側に斜めに押し倒したことが想像されます。浅間の泥流は上流から流れてきたはずですが、なぜ下流側から西宮を襲ったのでしょう?
明治時代、西宮には小学校がつくられました。校舎は野口茂四郎氏の剣道場が使われたということです。この剣道場は、現在発掘調査が行われている西宮遺跡の中にありました。
本校は隣の林地区にありましたが、当時は便利な道ができておらず、川原畑地区と川原湯地区の子供が通うのは難しかったため、両地区の子弟のためにつくられたということです。
吾妻川対岸の川原湯地区とは吊橋で結ばれており、洪水がくると流されてしまう吊橋は、川原湯温泉の山木館の下にあったということです。川原湯のつり橋のたもとには、観光客が小休止できる小公園もあったそうです。
萩原朔太郎はここを訪ねて写真を撮ったようで、朔太郎の写真集にはこのあたりの写真が載っています。
吾妻渓谷と西宮遺跡について、ツイッターに投稿した写真と説明を @forthman さん、@kajiken76さんが以下のページにまとめて下さっています。
●吾妻渓谷(八ッ場)2014年6月
http://togetter.com/li/680328
●群馬県 西宮(にしみや)遺跡(長野原町)
http://togetter.com/li/680322
●八ッ場ダム予定地の今 2014春(1)
http://blogs.yahoo.co.jp/kajiken76xyz/62520301.html
●八ッ場ダム予定地の今 2014春(2)
http://blogs.yahoo.co.jp/kajiken76xyz/62521922.html
●八ッ場ダム予定地の今 2014春(3)
http://blogs.yahoo.co.jp/kajiken76xyz/62587927.html
●八ッ場ダム予定地の今 2014春(4)
http://blogs.yahoo.co.jp/kajiken76xyz/62639795.html