1994年度に開始された八ッ場ダム事業の発掘調査では、これまでに54遺跡の調査が行われてきました。
発掘調査の費用は八ッ場ダム基本計画の五度目の変更により、当初の予算額に匹敵する約67億円増額され、130億円以上となる見込みです。増額の最も大きな要因は、一つの土地に複数の時代の遺跡が埋もれていることなどによる調査面積の増大です。
吾妻川の右岸側にある川原湯地区の水没予定地、上湯原では、昨年から石川原遺跡の発掘調査が本格的に進められています。報道では取り上げられることがありませんが、密教寺院や江戸・天明期の泥流に埋もれた屋敷跡や畑が次々と出土し、大きな成果を上げています。
(写真右=川原湯の山並みを背にした石川原遺跡。標高539~533メートル)
八ッ場ダム事業の発掘調査については、調査を実施している群馬県埋蔵文化財調査事業団がホームページで最新情報を掲載しています。➡発掘調査の最新情報
石川原遺跡については、下記のページに見学レポートを掲載していますのでご参照ください。
●「八ッ場ダム水没予定地の石川原遺跡(川原湯地区)」2015年6月19日 *不動院(密教寺院)の発掘等
●「水没予定地の石川原遺跡への道」 2016年9月4日 *天明浅間災害遺跡
さる11月22日、県埋文事業団の八ッ場ダム調査事務所長の案内により、角倉邦良県議ら(リベラル群馬)が石川原遺跡の視察を行いました。(写真下=石川原遺跡の発掘現場。対岸の林地区の山々が見える。)
石川原遺跡における今年度の発掘調査面積は約5万平方メートルと広大ですが、八ッ場ダム予定地では地面の凍結等により12月末で今年度の発掘調査は終了します。群馬県教育委員会によれば、来年度以降、残りの約2万平方メートルの発掘調査が行われる予定とのことです。
ダム本体工事現場の吾妻渓谷には、縄文草創期~早期の遺跡として注目される石畑岩陰遺跡がありますが、10ヶ月以上かかるともいわれるこの遺跡の発掘調査がいつ始まるかは、まだ決まっていないとのことです。
石川原遺跡では、1783年の浅間山大噴火によって泥流に埋もれた江戸・天明期の遺跡の発掘調査が行われてきましたが、天明遺跡の調査が終わった場所では、その下に埋もれている古い年代の遺跡の発掘が進められています。
22日の視察で見学したのは縄文時代と平安時代の遺跡でした。
八ッ場ダム予定地では数多くの縄文遺跡が出土しています。横壁中村遺跡、長野原一本松遺跡、林中原Ⅱ遺跡などの大規模集落のほか、林地区の楡木Ⅱ遺跡における縄文早期初頭の定住生活の確認や林中原Ⅱ遺跡における大量の焼骨出土など、考古学上の重要な発見もありました。
わが国の考古学では、一万年近くにわたる縄文時代を早期から晩期まで5期に分けることが多いのですが(草創期を加えると6期)、ダム予定地では縄文各期の遺跡が検出されていることから、考古学者の勅使河原彰氏は八ヶ岳山麓の”縄文王国”に匹敵する価値を持つと評価しているほどです。豊かな山の幸と湧水、河岸段丘上の平坦地に恵まれたダム予定地は、縄文人にとって暮らしやすい土地であったようです。
(写真左=栃の実。吾妻渓谷に隣接する川原湯地区は落葉広葉樹林に覆われており、縄文人がその実を常食したとされる栃やドングリ、栗の木が多い。縄文人が煮炊きに利用した土器は、栃やドングリの実のアクを抜くのにも使われた。)
右の写真は上湯原で出土した縄文後期~晩期の遺跡です。一見ただの地面のように見えますが、列石や土器が大量に埋もれています。
川原湯地区は北向きで日陰の場所が多いのですが、上湯原は吾妻川に張り出すように広がる舌状台地で、山から離れた場所は日当たりもよく、ダム事業が始まるまでは静かな農村地帯でした。
しかし、写真の場所は南側(手前)に覆いかぶさるように山並みがあり、あまり日が当たりません。列石が並んでいる遺跡の状況から見て、住居跡ではなく、祈りなどの儀式の場であった可能性があるとのことです。
近づいてみると、様々な文様が描かれた土器が見えてきました。
右の土器の文様は、よく見ると実に精緻で、縄文人の技術の高さに驚かされます。これらの破片を接合させて、本来の土器の姿が復元されるのでしょうか。
稲作を経済基盤とした弥生時代以降とくらべ、食料確保の面で、より自然への依存度が高かった縄文人は、どれほど食材を得ても、食料が足りなくなるという怖れから解放されることはありませんでした。土器に描かれた文様の中には、自然への祈りを表していると考えられるものもあるということです。
石川原遺跡の対岸となる吾妻川の左岸側には、日当たりのよい南向きの河岸段丘が開けており、縄文時代の早期の遺跡が集中しています。それまでは狩猟や最終の場でしかなかった右岸側に集落が形成されるようになるのは、左岸側だけでは人口増加に対応できなくなってからです。
縄文後期から晩期、食料不足と気候の冷涼化による環境悪化に苦しめられた縄文人は、祈りや祭祀によって逆境を乗り越えようとしましたが、やがて集落は終焉を迎えることになりました。
(写真右=土器を作る際、使用した敷物の文様が底面に刻み込まれている。)
火山灰土壌に覆われている日本列島では、畑作は困難で、朝鮮半島からもたらされた水稲農耕と金属器の導入によって初めて農耕社会への転換が可能となりました。しかし山間部の八ッ場ダム予定地は、縄文時代とは逆に水田稲作にとっては条件が悪いため、弥生時代の遺跡は非常に少なく、再び遺跡数が増加するのは平安時代になってからです。
写真右下は、天明の遺跡の調査が終わり、その下の平安時代の発掘調査が行われている場所です。
電柱の周りに銀色のシートで覆われた場所が1783(天明3)年の泥流の跡です。厚みが2~3メートルあります。シートの一番下の高さに、天明の遺跡の面がありました。さらにそこから下に長方形に掘りこまれた場所が平安時代の竪穴住居の跡です。
このあたりには、平安時代の住居跡がいくつも検出されていますが、農耕を行っていた形跡は今のところありません。しかし、平安時代の遺跡の面からは、当時、愛知県や岐阜県でしか生産されていなかった灰釉陶器なども出土しており、ここに住んでいた人々が他の地域から孤立した自給自足の生活を営んでいたわけではなく、何らかの形で収入を得て、他の産地で作られた物を購入することによって生活を営んでいたと考えられます。どのような仕事をしていたのかはまだわかっていませんが、たとえば木地師などの職業も考えられるということです。
写真=平安時代の住居跡。かまどで使った火のせいで、土の色が赤みがかっている。右手の石が並んでいる場所を含めて厨であったと考えられるという。
写真=上の方の石垣と下の方の石垣は、石の積み方が異なっている。下の方の石垣は江戸・天明の泥流に埋もれていたため、天明以前の石積みと考えられる。この石垣の上の小高い所に、これまで上湯原の住民の共同墓地があった。
写真=縄文遺跡の脇に見える地層。