今年は利根川上流ダム群建設のきっかけとなったカスリーン台風水害から70年目になります。利根川支流の吾妻川に、ダム群の一つとして計画された八ッ場ダムはいまだに完成していませんが、利根川本流に計画された藤原ダムは1952年に着工、159戸の水没住民が移転を余儀なくされ、6年後の58年に利根川上流ダム群の最初のダムとして完成しました。(写真右下=藤原ダム)
藤原ダムのある群馬県みなかみ町藤原地区は、利根川最上流、新潟県との県境にある集落で、冬は豪雪に見舞われます。
戦後、利根川上流には次々と巨大ダムが建設され、歴史ある集落が沈められてきましたが、水没住民は沈められた古里への思いを断ち切らなければ生きていかれなかったからか、水没集落の記録は殆ど残されていないのが実状です。藤原地区は奥州藤原氏ゆかりの落人部落との伝説がありますが、伝説の根拠となる資料などは残されていません。
地元紙・上毛新聞に藤原ダムを抱える土地の古老の思いを伝える記事がありましたので、転載します。
(記事中の写真も含め、掲載写真はあしたの会撮影)
◆2017年7月11日 上毛新聞
ー水と生きる 一章 潤す③ 藤原ダム 湖底に沈んだ古里ー
利根川最上流の矢木沢ダムから下流に9㌔。首都圏の水がめの一つである藤原ダム(みなかみ町藤原ダム)は1947年のカスリーン台風を受け、洪水被害を防ぐ目的で計画された。58年の完成から来年で60年。治水と引き換えに湖底に沈んだ古里を語る人も、歳月の流れとともに少なくなっている。
「ダム建設が急激な過疎化の引き金だった」。水没した民家の農具や生活用具などを集め、地元で展示している奥利根民俗博物館・集古館の館長、吉野仍次さん(82)は振り返る。
ダム建設に当たり、集落の半数、約160世帯が立ち退きを迫られたという。旧建設省が補償や移転先などの具体案を示さないまま工事を進めているとして、有志が53年、建設に反対する期成同盟を結成。農作業に使うむしろで急造した旗を掲げ、国会議事堂まで抗議に出向いた。
反対運動は県の仲立ちにより数カ月で収まったが、「地元に残った我々が、生活再建を求めてもっと運動を続けるべきだった」と悔やむ。現在も国に道路整備を求めており「藤原地区は豪雪地帯で陸の孤島。沼田市までトンネルを掘って、過疎化に歯止めを掛けたい」と思いを語る。
(写真右上=集古館には湖底となった横山地区の写真が掲げられていた。)
1枚の手書きの地図がみなかみ藤原小・中の校長室に飾られている。みなかみ町月夜野に住む林郁次さん(85)が「ダムに沈んだ古里を若い世代に伝えたい」と寄贈したものだ。
藤原地区で長く郵便物の集配係に従事。当時の記憶をたどりながら、どこに誰が住んでいたか、どんな店があったかなど詳細に記録した。「ダムに沈んだ場所は藤原地区中心部。家も店も多かったが、毎日郵便を届けていたので、町並みは今でも鮮明に覚えている」
ダム建設中は工事従事者で大いににぎわったと懐かしむ。何百人もの作業員が集落にあふれ、映画館やパチンコ店、飲食店、地域全体が好景気に沸いた。建設後は人が減ったが、ダム湖である藤原湖にはボートや遊覧船が浮かび、「ダム観光」に期待が寄せられた。
(写真右上=地元住民がダム湖周辺で営業した観光施設は、バブルの頃までは賑わったが、その後、倒産し、看板だけが残っていた。2013年8月4日撮影。)
ただ時間の経過とともに、誘客も伸び悩むように。産業構造の変化もあり、長い歴史を持つ藤原地区も過疎化の波に飲み込まれていった。「働き口がなくなり、若者がいなくなった。ダムがなかったとしても過疎化していただろうが・・・」。寂しそうな表情で古里に思いをはせた。
【メモ】みなかみ町にある全7ダムのうち、藤原地区に四つが集中する。今年で完成50周年の矢木沢、利根川水系の楢俣川に位置する奈良俣、利根川と楢俣川の合流地点にある須田貝とその下流の藤原。それぞれ洪水調節や利水、水力発電などの役割を担っている。
~~~転載終わり~~~
写真下=集古館に掲げられていた藤原ダム水没地の説明。
写真下=ホテル藤原郷跡。創業者は藤原ダム建設対策期成同盟委員長、町議、観光協会長も務めた村の名士で、藤原ダム完成を機に建てられたという。バブル期は落人料理「ざるめし」を看板に繁盛したが、2007年事業停止。2013年8月4日撮影。参考:衆議院会議録(昭和29年8月12日)、参考人:林賢二氏(藤原ダム対策期成同盟委員長)
写真下=藤原ダムから10キロ以上利根川を下ったところにあるみなかみ町の諏訪峡では、最近はラフティングが人気で、若者でにぎわっている。カヤッカーはスリルのある川下りを楽しんでいるが、ダム直下は水が濁り、夏場は臭いがすることもあり、近づく人はいないという。