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風情 わき出るか ダム建設の群馬・川原湯温泉「新天地」へ(産経新聞)

2006年9月22日 産経新聞より転載
 鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が発見したとされ、800年以上の歴史を誇る群馬県長野原町の秘湯・川原湯温泉街が、近くの高台に丸ごと引っ越すという事態に迫られている。工事が進む八ッ場ダムが平成22年度をメドに完成すると、温泉街がすべて水没してしまうからだ。旅館や住民の集団移転は来年1月にも始まるが、見切りをつけて街を去った旅館経営者も少なくない。果たして、「新天地」で温泉街を再建させられるのか。(小川寛太)

 山の中腹からわき出る川原湯温泉の源泉は1193(建久4)年、浅間周辺で狩を楽しんだ頼朝が帰路でみつけたと伝えられる。強烈な硫黄臭が特徴で、共同浴場「王湯」の正面には源氏の紋所「笹リンドウ」が掲げられている。
 源泉は水没する「王湯」の下からわき出るものと、そこから南に直線距離で約100メートル離れた新源泉の2ケ所。移転後は、温泉街が移る標高600メートルのダム湖畔まで、湯をポンプでくみ上げる設備を整える。
 治水と首都圏の水供給を目的に、国などが吾妻川に八ッ場ダムを建設する計画が持ち上がったのは、半世紀余り前の昭和27年。貯水容量は東京ドーム87個分の約1億立法メートルと利根川水系で三番目に大きく、事業費は約4600億円に上る。
 ダム建設によって歴史ある温泉街が沈むとわかると、地元住民らの反対運動は激化した。国と県などが建設の基本協定を締結した後も、移転に伴う補償交渉は難航し、温泉街の存続を不安視した川原湯地区の住民約200世帯のうち、約4分の3が次々と去った。最盛期の昭和40年代に18軒あった旅館も、11軒にまで減った。
 昨年9月にようやく現在の建造物を移築する費用を国が見積もり、分譲基準(補償)案で国と合意した。しかし、大半の旅館は昭和30~40年代に建てられ老朽化が激しく、新築での営業再開を望む経営者は多い。補償金だけでは新築にかかる費用は賄えず、「金銭的な負担が軽減されない」という不満は解消されなかった。
 川原湯温泉旅館組合の豊田明美組合長(41)は、「かつては『六畳トイレ付き』でよかったが、今は『12畳露天風呂付き』でないとお客さんは来てくれない」とこぼす。

旅館11→7軒 観光地も水没
 旅館経営者にとって期待はずれとなった補償案をつきつけられた結果、代替地に移転する旅館は7軒ほどしかなく、3軒あった共同浴場も、移転地では1軒だけが再建される予定となっている。
 代替地で軌道に乗せるには10年から20年はかかるともされ、温泉街ならではの風情を移転先でいかに早く作り上げるかという課題が重くのしかかる。名勝・吾妻峡の一部が水没することを受け、観光客の減少を食い止めようと国に要望した遊歩道の移設は、具体策がいまだにまとまっていない。
 当面、今秋から移転先で植栽を始めて、新温泉街の緑化に乗り出すほか、旅館を一定のゾーンに集めたり、街灯のサイズを統一するなど、街並み整備の青写真も固まりつつあるという。川原湯温泉観光協会事務局の役員を務める飲食店経営、水出耕一さん(52)も「自然豊かな秘湯の雰囲気を出したい」と意気込んでいるが、再興への道のりは決して平坦ではない。