八ッ場ダム計画の歴史の生き証人であった樋田富治郎さんの葬儀について各紙が報じています。
元反対期成同盟委員長であった樋田氏は、八ッ場ダム反対の住民運動を担ったお一人でした。樋田氏が長野原町長に当選した1974年、新聞は「八ッ場ダム中止か」と大見出しを打ちました。1973年のオイルショック以後、東京の水需要の動向は一変し、その後、八ッ場ダムは利水上の必要性を年々失っていきました。
こうした事実を伏せ、利権のために強引にダム計画を進めてきた政党の人々が、故人の葬儀にあたって、「樋田氏のために、ダムを完成させなければならない」と訴え、それ以外の声が出てこない長野原町の状況は、傍から見ると異様に映ります。
「ダム受け入れ後、長野原町は植民地になってしまった」と嘆いた地元の方の言葉が思い出されます。樋田氏をはじめとする地元の多数の人々の民意を押し潰し、ダム問題に翻弄される人生を強いた旧政権の人々が、その責任を問われる日はいつになったらやってくるのでしょうか。
●2010年6月14日 朝日新聞社会面より転載
ーダムが止まるまち 八ッ場から 民主の影 積もる不信 参院選前 再び揺れる地元ー
八ッ場ダム予定地の群馬県長野原町の体育館は13日、喪服姿の町民ら約520人で埋まった。先月、86歳で亡くなった樋田富治郎元町長の、遺族と町による合同葬。ここは、5ヶ月前に前原誠司国土交通相と地元住民が初めて対話した場所だ。
最前列に顔をそろえたのは、大沢正明知事や地元の衆院群馬5区選出の自民党の小渕優子衆院議員らダム推進派の政治家。2列目は、民主党の富岡由紀夫参院議員、同党から参院比例区に立候補予定の小寺弘之前知事ら。
高山欣也・現町長が樋田氏の歩みを振り返った。税務署職員から妻の実家の旅館を継ぎ、ダム反対派の旗頭として1974年に初当選。1期目はダム絶対反対を掲げたが、町への補助金を握る国や県に「ダム反対」と異を唱えるだけでは町政運営はままならず、2期目に県との交渉のテーブルについた。3期目には「住民を犠牲にしないダムづくり」を条件に、建設を受け入れた。
弔辞では、建設推進を望む声が相次いだ。「建設まであと一歩というところで、足踏みをしている現在の状況は誠に残念」(大沢知事)
福田康夫氏と中曽根康弘氏らの弔電が読み上げられたが、前原国交相からの弔電は名前が紹介されただけ。来賓で最初に紹介されたのは小渕氏。招待されずに飛び入り参加した富岡氏は名前すら呼ばれなかった。
今夏の参院選の群馬選挙区は富岡氏と、元首相の長男の中曽根弘文前外相の現職2人と、共産党の店橋世津子氏の3氏が1議席を争う。
富岡氏と中曽根氏はともに県建設業協会に推薦依頼を出した。過去、自民党候補を推薦してきた同協会は今回、公開質問状を2人に出した。
八ッ場ダムをめぐり、富岡氏は「再検証の結果と地元住民の納得を前提に中止の判断をすべきだ」。中曽根氏は「着工すべきだ」と答えた。同協会は300社の意見を踏まえ、中曽根氏への推薦を決めた。ただ、富岡氏にも「個別企業の動きは縛らない」と配慮をみせた。青柳剛会長は「我々は公共事業に左右される。政権与党に何もしないわけにいかない」。
民主党は、父の代から強固な中曽根氏の地盤の切り崩しを狙って小寺氏を立てた。小寺氏と中曽根氏は支持者が重なる。小寺氏と富岡氏が一緒に動くことで、票を伸ばせるという狙いだ。
小寺氏の立候補の動きは、地元に波紋を呼んでいる。自治官僚出身の小寺氏は群馬県の課長時代から長野原町を訪れ、八ッ場ダム水没5地区連合対策委員会の萩原昭朗委員長との付き合いは30年以上。民主党から立候補する理由を小寺氏は「知事時代の経験を国政に生かしたい」と説明。八ッ場ダムは国策で、「知事として国と地元の調整してきた」と強調し、「調整役だった私だからこそ解決できる」と呼びかけている。
一方で、住民の間からは冷めた声があがる。「知事時代にダムを推進しながら、何で民主党なんだ」
小寺氏は5月上旬、川原湯温泉の旧知の旅館主に立候補のあいさつをした。旅館主は言う。「頼まれれば投票はするけど、政治には期待してねえ」。ダム問題と向き合った58年の歳月。政治不信もその分、積み重なったままだ。
●2010年6月14日 朝日新聞群馬版より転載
ー八ッ場よ! 「生活再建まだ・・・無念」 樋田元長野原町長の合同葬で参列者ー
八ッ場ダムの建設問題に取り組み、86歳で先月亡くなった長野原町の樋田富治郎・元町長の、遺族と町による合同葬が13日、町総合運動場体育館であった。「住民を犠牲にしないダムづくり」を掲げて町長職を長く務めた故人とのお別れの場。ダム建設を願う声があらためて上がった。
「樋田さん、去年の今ごろ、まさか政権交代でダムが中止になるという次元の低いことが起きるとは、夢見ていなかったでしょう。大きなバラを胸につけ、2人で一緒に起工式に参加したかったなあと思います」
町政を樋田元町長から引き継いだ田村守前町長(72)は、弔辞で話しかけた。
「八ッ場哲学を持っていた」。1974年、当時のダム反対期成同盟委員長から町長選に立候補して当選し、4期16年間務めた。金銭補償のみでなく、水没住民の生活基盤確立と地域振興が重要と位置づけ、力を注いだ。
田村前町長は最後にこう述べた。「立派なダムサイトが、立派なせいかつっ再建ができるようご加護をお願いしたい」
元町長を擁立した一人、冨澤吉太郎町議は「聞く耳を持っていた人だから、下流の(住民の)ために受け入れを決めた」と公人を思い返した。町民の間で、ダム問題の賛否が割れていた時代。「期成同盟委員長で負けたら納得がいく」と元町長の背中を押した。「民主党は下流住民の声を聴き、必要か必要でないか公正な検証をしてもらいたい」
故人と同様に川原湯温泉で旅館を営むかたわら、ダム反対期成同盟委員長を務めた竹田博栄さん(80)は「戦友がまた一人いなくなった」と目頭を押さえた。「町長時代に建設を容認したのは、国が水没地区の生活再建をすると約束したから。その約束がいまだに実行されていない。無念がこみ上げてくるが(建設に向けて)若い人たちにがんばってもらいたい」
大沢正明知事も弔辞を読んだ。「政権交代による再検証でダムが足踏みしている状況は、誠に残念」。葬儀後の取材に対しては、「ダム中止撤回と住民の生活再建を霊前に誓った」と話した。
葬儀委員長を務めた高山欣也町長は式後、「(建設反対から容認へ移った)激動の時代を町長として乗り切られ、ダムに明け暮れた人生を送られた。それだけに、ダムの完成を見届けられず、さぞ無念だろう。ご遺志を継ぐために、何としても建設を推進していきたい」と語った。
一方、知事時代にダムの基本協定調印の場に立ち会った小寺弘之前知事は「八ッ場ダムの問題は長い歴史があり、国策の変更には地元の悩みや苦しみを理解する必要がある。結論ありきではなく、説得ではなく納得してもらうことが大切だ」と話した。