物議を醸す発言でしばしばメディアを賑わす石原慎太郎都知事による八ッ場ダム関連発言が新聞で報じられました。
●2010年6月18日 朝日新聞より転載
http://www.asahi.com/politics/update/0618/TKY201006180480.html
ー八ツ場ダム、土地収用すれば「早く済んだ」 石原都知事ー
前原誠司国土交通相が建設中止の方針を表明した群馬県長野原町の八ツ場(やんば)ダムについて、東京都の石原慎太郎知事は18日、「上にいる人たちが(土地収用法で)やれって言ってくれれば、もっと早く済んだ。心遣い気遣いで時間がかかりすぎた」と述べた。計画が明らかになって58年たっても完成しない要因に、土地収用法に基づき予定地を地権者から強制収用しなかったこともあるとの認識を示したもので、都内で開かれた同ダム推進議連1都5県の会の総会のあいさつで発言した。
石原都知事はテレビ番組でほかの政治家が語ったのを聞いて「なるほどなと思った」として土地収用に言及。衆院選が中選挙区制だったころ、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三という首相に上り詰めた3氏が、ダム予定地を含む旧群馬3区選出だったことから「こういう偉い人たちのおひざ元であんまり強引な土地収用ってできないなあってことで、土地収用法をやらなかった」との見方を紹介した。
総会には、自民党の6都県議を中心に、長野原町の高山欣也町長ら地元関係者を含めて約200人が出席。高山町長はこの発言についての朝日新聞の取材に応えなかった。
総会終了後、推進議連の役員らは国土交通省を訪れ、ダム本体の早期着工を求める申入書と、6都県で集めた7万1081人の署名簿を前原国交相に手渡した。
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上記の石原都知事の発言には幾つかの事実誤認があります。
1.八ッ場ダム計画では土地収用法をやらなかった
八ッ場ダム計画では1969年、建設省により土地収用法第11条に基づく立ち入り調査が実施されました。この強硬手段は、地元住民の態度を硬化させ、建設省への不信感が増幅した結果、建設省は地元の多数派住民と話し合うことができない状況が長く続きました。土地収用法の発動は、建設省と地元住民との関係をこじらせ、ダム計画を長引かせる要因になったとされています。
2.心遣い気遣いで時間がかかりすぎた
ダム起業者である建設省が水没予定地域の住民に心遣い気遣いをしたのか? 表向きはそうかもしれません。1950~1960年代、全国で勃発したダム反対運動を沈静化させ、土地収用が容易になるよう、建設省は法改正、新たな法整備に積極的に関わり、水没予定地の多数住民が反対していたにも関わらず、外堀を埋め、地域を疲弊させ、ダムを受け入れるしかない状況を作り出しました。多数派住民がダム反対であったことから八ッ場ダムには終始慎重姿勢であった神田元知事(1960~1976年)は、ダム推進派の福田赳夫元首相らによって1976年の知事選出馬を断念させられ、その後の群馬県知事は、建設省の意向通り、ダム推進のレールを走るようになりました。
全国の多くのダムに適用された水源地域対策特別措置法(1973年施行)は、ダム予定地域に地域振興の名目で多額の予算をつける道を開きました。八ッ場ダムでは、この水特法に基づく水源地域整備計画に997億円の予算がつけられています。ダム予定地域には多額の税金が投じられていますが、結果的に人口が激減し、疲弊する一方のダム予定地域の現在の姿は、法整備が地元民のためというのは名目で、ダムを推進した政官財にとっての利益であったことを示すものです。
「嘘と欺瞞のダム行政」という言葉があります。本当に地元民に対して、心遣いと気遣いがあったのなら、水没予定地でこれほど「政治不信」、「行政不信」が極まることはなかったでしょう。
3.ダム計画遅延の原因
石原都知事は、八ッ場ダム計画が遅れた原因は、水没予定地住民の抵抗に対して、当局が強い態度で臨まなかったからだと解釈しているようです。
八ッ場ダム計画が遅れた要因はいくつもあります。地元住民の抵抗もありましたが、「水質」や「地質」の問題もあります。結果としてみれば、ダム計画そのものに無理があったことが八ッ場ダム事業遅延の最大の要因です。八ッ場ダムを推進する立場にある都知事が、ダム事業の遅れをダム事業の犠牲になってきた地元の人々の責任に転嫁するーこうしたおかしな論理は、石原都知事だけでなく、今までダム推進派によってしばしば展開されてきました。