2011年12月29日
12月22日の夜、前田国交大臣がダム予定地のある長野原町を訪れたことは、八ッ場ダム建設再開の流れを決定づけた、といわれます。
この日、前田大臣は閣僚懇談会で八ッ場ダム建設再開をその日に表明することを報告し、夕方に記者会見を行いましたが、記者発表の時点では、民主党の了承を得ていませんでした。しかも、記者発表の前に、関係都県知事、地元長野原町の町長らに「八ッ場ダム建設再開」を条件ナシで実施すること、その日の夜に現地入りすることを電話で伝えたことが明らかになっています。
こうした前田大臣の行動は、国交省のシナリオに沿ったものと受け止められており、22日の一連の動きは、河川官僚の暴走、国交省のクーデターなどとも言われます。
「八ッ場ダム中止」は2009年の総選挙において、多くの有権者が民主党政権に期待した政策でした。自民党政権下で進められた八ッ場ダム計画は、必要性に科学的な根拠がなく、利権構造を温存し、官僚の天下り先に税金を流し続けることが本来の目的であることが多くの有権者に知られるようになってきたからです。
民主党が政権公約(マニフェスト)の一丁目一番地である政策を放棄するのであれば、国民に対してその理由を説明する責任があります。けれども、「八ッ場ダム建設再開」の理由として国交省が示しているのは、国交省関東地方整備局による検証にしろ、同局が計算した費用対効果にしろ、データの裏づけがなかったり、データの捏造があったり、現実から乖離していたりと問題だらけです。そうした批判に対して国交省は何一つ反論できないのですから、お役所の内部では罷り通っても、河川官僚のコントロールが効かない場では通用しません。
検証作業の過程では、関係都県知事と関東地方整備局による自画自賛、埼玉県による”やらせ”パブコメ事件、「有識者」という名の御用学者の「活躍」など、官僚のシナリオによる茶番劇が延々と繰り広げられ、こうした実情を知った国民は、河川行政の腐敗ぶりに今さらながらあきれ果てることになりました。
民主党が国交省の報告をもとに、国民に「八ッ場ダム建設再開」の理由を説明することはおよそ不可能です。23日の政府・民主三役会議で前原政調会長らが最後まで抵抗したのは当然です。案の定、河川官僚の暴走を黙認した政府と政府の意向に従うことになった民主党は、国民の厳しい批判を浴びています。
こうした中、国民の中で唯一、八ッ場ダムの建設を待ち望んでいるといわれているのがダム予定地の長野原町の人々です。前田大臣が22日の夜、現地に駆けつけたのは、自らの決定が歓迎されていることをアピールするためだったのでしょう。前田大臣を万歳三唱で迎えた現地の映像は、ダム推進という既定路線のシナリオのフィナーレとして、まことにふさわしいものでした。
地元民が喜んでいるものを、今さら撤回など出来ない、というプレッシャーを民主党の国会議員らに与えるのに、これほど効果的な舞台設定はありませんでした。実際のところ、政権交代直後、地元で繰り広げられたダム推進運動は、昨年の参院選を念頭に置いた自民党主導による選挙運動でした。自民党の後援会組織が厚い地盤を誇る現地では、住民を動員して足場のない民主党を叩くなど、わけもないことです。官僚体制と自民党が手に手をとって再度の政権交代を目指すー「八ッ場ダム中止」の民主党マニフェストは、自民党にとって格好の攻撃材料でした。
前田国交大臣が頭を下げ、握手したのは、「地元」という名の自民党であり、国交省が進めてきた八ッ場ダム事業でした。
それにしても、河川官僚はなんと人の心を操るのが上手なことでしょう。ダム計画に反対する住民らを地域ごと真綿で絞めるように圧力を加えて陥落させる経験を蓄積してきた組織にとって、民主党の国会議員の心理をコントロールしたり、マスコミを利用して世論操作を行うことなど、ごく容易なことなのかもしれません。
前田大臣を歓迎した「地元民」の中には、群馬県知事や県幹部、昨年の参院選で土建業界の全面支援を受けて初当選した上野宏史参院議員(みんなの党)らの姿もありましたが、地元の総意が万歳三唱であると受け止めた視聴者も少なくなかったでしょう。
こうして、一般国民とダム予定地住民という対立の構図が改めて作られることになりました。不況にあえぐ多くの国民にとって、八ッ場ダム事業の再開は受け入れがたいものです。顔を出さない本当の犯人の身代わりとなって矢面に立たされるダム予定地の人々は、これまではダム計画の「犠牲者」でしたが、このままダム事業が進めば国交省の「共犯者」とみなされることになってしまいます。
前田大臣は「地元民」の歓迎に目を潤ませたとのことですが、テレビに映し出される「地元」の映像には、”やらせ”の部分が少なくありません。長野原町には国交省関東地方整備局の出先機関があり、現地はいわば国交省のコントロール下にある植民地のようなものだからです。
関連記事を転載します。
◆2011年12月23日 毎日新聞群馬版
http://mainichi.jp/photo/archive/news/2011/12/22/20111223k0000m040093000c.html
-八ッ場「再開」:2年間何だったのか…住民、迷走に怒り
群馬県長野原町で建設が進んでいた八ッ場(やんば)ダムをめぐる政府・民主党の迷走は22日、最終的に「建設再開」で決着した。「古里が水の底に沈む」。建設に反対する住民、やむなく受け入れた住民とも、ダム事業には痛切な気持ちを抱いてきた。「何のための2年間だったのか」。政治に振り回されてきた住民は怒りの声を上げた。
「なめるのもいいかげんにしろと言いたい。マニフェストに書いてあることは二度と信じない。ダムを造るくらいなら、東日本大震災の被災者に予算を回してほしい」
長野原町の公務員、高山彰さん(58)は22日、民主党政権がまとめた結論にこう憤った。一昨年夏の衆院選をきっかけに、問われれば、「ダム建設には反対だ」と公言するようになった。「政権交代で政治の流れは変わる」。そう期待した。
ダムの建設計画が持ち上がったのは終戦から7年後の52年。高山さんが生まれる前のことだ。国は、首都圏などへの利水と治水を建設の目的に挙げた。
だが、ダムができれば、住まいがある一帯は水没する。憤まんはあった。でも、「仕方ない」とも思っていた。「決着済み」との空気が町にあるのを感じていた。
町には、むしろ旗を押し立てた住民たちが国を相手に激しい反対運動を続けた歴史がある。水没予定地にある川原湯温泉の旅館のあるじたちも国に抵抗した。だが、国は折れない。町は85年、国や県の意向を受け入れた。
ところが、一昨年夏の政権交代直後、前原誠司国土交通相(当時)は「建設中止」を宣言する。民主党は衆院選のマニフェスト(政権公約)で、八ッ場ダムを「無駄の象徴」として掲げていた。前原氏の発言は、自民党政権からの政治の転換を印象づけた。
報道陣が町に押し寄せ、高山さんは取材のテレビカメラに、こう話した。「故郷を水に沈めるなんて、賛成できるわけがない」。率直な気持ちだった。
「余計なことを言わないで」。高校生の娘に、くぎを刺された。でも、考えは変わらなかった。「ダムの建設が止まれば、古里を娘たちに引き継げる」
高山さんは今、肩を落とす。「政治を信じた自分が、ばかだったのか」
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政治に気持ちをかき乱されたのは、やっとの思いで古里を離れた住民も同じだ。
「許しがたい2年間だった」。茂木安定さん(76)は話す。水没予定地にある料理店を畳み、隣の群馬県中之条町に引っ越した。その2カ月後、政権交代とともに「建設中止」が発表された。
「人生そのものだった店を、何のために明け渡したのか」。怒りがこみ上げた。計画が白紙に戻っても、店はすでに取り壊していた。中学を出て働き、32歳で持った郷土料理が自慢の店だった。
「民主党は、住民の決断の重みを理解していなかった。住民の感情をこじらせただけの2年間だった」。茂木さんの店「ふるさと」があった場所には、ダム建設のための鉄筋コンクリート製の橋脚が立っている。
国土交通省によると、八ッ場ダム計画の水没予定地には79年、340世帯が暮らしていた。今年3月までに、このうち314世帯が土地を国に売却した。【奥山はるな】
◇国交相の謝罪に知事ら万歳三唱
前田武志国土交通相は22日夜、群馬県長野原町を訪れ、大沢正明知事や高山欣也町長、ダム推進派の町民ら約50人に(八ッ場やんば)ダムの建設を再開すると伝えた。出席者は万歳三唱で歓迎し、前田国交相は深々と頭を下げた。
前田国交相は冒頭、「この2年間、大変ご迷惑をかけ、つらい思いをさせた。60年近く、3代、4代にわたり、みなさんの生活を翻弄(ほんろう)し、ご迷惑をかけた。心からおわび申し上げます」と謝罪した。
大沢知事は「この2年間、地元は先が見えなかった。報告を聞いて、どんなにほっとしているか、計り知れない」と歓迎。高山町長も「心から感謝している。これで希望が持てる」と語った。【奥山はるな】
◆2011年12月24日 毎日新聞群馬版
http://mainichi.jp/area/gunma/news/20111224ddlk10010032000c.html
-流転の果てに:八ッ場ダム建設再開/上 苦渋の「合意」した父ー
◇住民流出、国に憤り
5歳の冬のある日。吹雪が舞う中、父に反対集会に連れて行かれた。半世紀以上前のことだ。「自分の家が水に沈む」。そう思うと涙があふれた。水没予定地の川原湯温泉街で旅館「山木館」を営む樋田文子さん(63)は、当時の様子を鮮明に覚えている。
八ッ場ダム計画が長野原町に伝えられたのは1952年5月。父、富治郎さんはダム反対派のリーダーだった。74年にはダム中止を掲げ町長選で初当選した。
しかし国と県は「推進」の姿勢を崩さなかった。80年に県が水没予定地の住民に代替地を提供し、同じような街づくりをする生活再建案を示すとダム反対派は少数派に。富治郎さんは85年、「苦渋の決断」で建設に合意し、91年に町長を退いた。
引退後は購読していた新聞5紙を読み、ダム関係の記事をスクラップして一日を費やした。移転代替地の造成が進まず、住民が町外流出する現状に「国や県は地元住民を犠牲にしないと言ったはずだ。約束が違う」と憤った。
鳩山由紀夫元首相ら民主党国会議員約30人を乗せたバスが温泉街にやって来たのは、世紀をまたいだ08年8月。計画は延期を重ね、まだ本体工事の着工に至っていなかった。この前年、富治郎さんはアルツハイマー型認知症に。それでも新聞を広げることは忘れなかった。政権交代でダムはいったん中止になったが、富治郎さんは検証作業を見届けないまま10年5月に息を引き取った。86歳だった。
「父は古里を水没させまいとダム反対に情熱を傾けた。ダムに合意した時は本当につらかったと思う」。文子さんは振り返る。婿養子の夫、洋二さん(64)ら水没予定地の住民の多くが「もう振り出しには戻れない」とダム事業継続を求める中、文子さんは中立の立場で推移を見守ってきた。
しかし政権交代後も温泉街は衰退の一途をたどり、22軒あった旅館は5軒に。山木館は今年11月、先陣を切って移転代替地で新旅館の上棟式を行った。建設再開の結論はまだ出ていなかったが、洋二さんは「待っていたら、いつ再建できるか分からない」と語る。建設再開が決まり、文子さんは「いつも住民は振り回されてばかり。今でも古里が水没するなんて信じられないが、いずれ受け入れなければならないと思っている」と話した。
【奥山はるな】