国交省資料がカスリーン台風の氾濫地とした場所
2012年10月21日
開催中の利根川の有識者会議は、八ッ場ダム建設(本体工事)の可否と深く関わっています。その有識者会議で問題となっているのが、戦後最大のカスリーン台風洪水(昭和22年)の氾濫状況です。
利根川の治水計画は、未曾有の大洪水を引き起こしたカスリーン台風の災害を契機として、大洪水の再来を想定して進められてきました。八ッ場ダム計画も利根川の治水計画の一環として構想されました。
以下の図は、国交省関東地方整備局がカスリーン台風の氾濫状況を示す資料として、有識者会議で配布したものです。同資料は昨年開催された日本学術会議における利根川の基本高水検討分科会にも提出されました。
http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000067340.pdf
資料5ページ 図4
国交省の説明によれば、この図はカスリーン台風の後、群馬県が刊行した以下の二つの文書をもとに、国土地理院発行の地形図に合わせて描き直されたものです。
①「昭和二十二年九月 大水害の實相」(昭和22年、群馬県)
②「カスリーン颱風の研究 利根水系に於ける災害の実相 日本学術振興会群馬縣災害対策特別委員会報告」(昭和25年5月、群馬県)
(注:国交省資料では、②の題名にタイプミス。)
けれども、上図は実際の氾濫状況とは大きく異なっています。
以下の図は、上図を地形図にそのまま転写したものです。
(八ッ場ダム住民訴訟において、有識者会議委員の大熊孝新潟大学名誉教授提出の意見書13ページより転載)
http://www.yamba.jpn.org/shiryo/tokyo_k/tokyo_k_g_iken_ookuma.pdf
カスリーン台風氾濫図(群馬県高崎市周辺)
青色部分は、最初の図の転写によるカスリーン台風の氾濫地域です。赤色部分は、建設省が昭和45年に発行した「利根川上流域における昭和22年9月洪水(カスリーン台風)の実態と解析」(利根川ダム統合管理事務所)に示された氾濫図の転写によって得られた氾濫地域です。
昭和45年当時、建設省は利根川上流に沼田ダムを構想していました。沼田ダムは貯水容量が八ッ場ダムの8倍という巨大ダムで、建設省はこのダム計画の必要性をアピールするため、カスリーン台風が再来した場合、利根川の最大流量は26,900?/秒になるという計算をしました。カスリーン台風では、利根川の治水基準点である群馬県伊勢崎市八斗島(やったじま)で観測機器が流出し、実際の流量を測れなかったため、建設省は17,000?/秒という推定値を採用しています。26,900?/秒と17,000?/秒との差は、八斗島より上流での氾濫流量であるとし、その根拠として赤色部分の氾濫面積を示しました。
沼田ダム構想が消えた後、建設省はカスリーン台風の再来流量を22,000?/秒に下げ、さらに昨年、21,100?/秒と算出しました。それでも依然として17,000?/秒とは約4,000?/秒の乖離があります。
国交省は数字の乖離の原因は、カスリーン台風当時、八斗島より上流で大量の氾濫があったからと説明していますが、それは事実ではありません。
国交省が有識者会議で配布した資料では、沼田ダム構想当時よりさらに氾濫面積が広がっていることが、青と赤の分布によってわかります。有識者会議の委員である大熊孝新潟大学名誉教授は、東京大学大学院在学中、昭和45年当時の氾濫図が実態より氾濫面積が拡大されていることを現地の聞き取り調査によって確認し、博士論文に記しています。それから40年以上経た現在、国交省の示す氾濫面積は、実際のカスリーン台風の氾濫面積から更にかけ離れたものとなっています。
国交省の机上の説明は、実際に現地を見ると、綻びが次から次へと出てきます。
10月19日の東京新聞は、一面トップでカスリーン台風氾濫図の問題を取り上げました。新聞社による現地調査の結果は、国交省の氾濫図が八ッ場ダム推進のために捏造されていることを示唆するものでした。
https://yamba-net.org/wp/modules/news/index.php?page=article&storyid=1750
氾濫図では、高崎市を流れる利根川最大の支流、烏川両岸に氾濫面積が広がっています。
以下は、氾濫図のB地点です。
烏川の聖石橋から左岸を眺めると、烏川沿いに国道があり、その向こうに木々が茂っている高崎城址公園が見えます。公園の向こうには高崎市の中心市街地が広がっており、国交省の氾濫図によれば、JR高崎駅も浸水したことになっています。
城址公園の下流にある下和田町では、烏川沿いの低地と10メートル以上の段差がある台地の地形がよくわかります。国交省資料ではこの台地も水没したことになります。
次に烏川の右岸側を見てみます。
氾濫図によれば、B地点の下流のC地点が広く浸水したことになっています。烏川の一本松橋からC地点を撮ったのが以下の写真です。烏川の右岸は田んぼや畑が広がっています。しかし田んぼや畑のすぐ向こうには、観音山丘陵(中山丘陵)の山並みが広がっています。
丘陵の中で最も標高の高い地点は200m近くあります。烏川沿岸の田畑より100m以上標高が高くなっていますが、ここも氾濫図では洪水が駆け上るような氾濫域になっています。
(ブログ「どうする、利根川? どうなる、利根川? どうする、私たち!?」より転載)
C地点の中ほどには、上信電鉄の山名駅があり、駅の山側には山名八幡宮があります。山名八幡宮は急な階段を上った場所にあり、社殿の裏は切り立った崖です。国交省の資料では、この崖上も浸水したことになっています。
高崎と下仁田を結ぶ上信電鉄(カスリーン台風氾濫図では線路を赤線で図示)
線路は丘陵の麓に敷設されており、写真の左側は丘陵地帯。
山名八幡宮の階段
山名八幡宮の社殿と裏山
C地点は、かつては八幡村といわれ、現在は南八幡(みなみやわた)地区と呼ばれています。旧八幡村は北に烏川、南に鏑川が流れ、両河川の合流地点に位置することから、かつては川の恵みを受けるとともに、水害に苦しんできた地域でもあります。特に明治43年、昭和10年の大水では甚大な被害が発生し、朝鮮半島に渡った水害被災者もいたほどです。しかし、昭和10年をきっかけに烏川、鏑川の築堤工事が行われ、烏川の堤防は昭和12年に、鏑川の堤防もその2~3年後には出来上がりました。昭和22年のカスリーン台風の際は、この堤防が旧八幡村の水害を抑える役割を果たしました。
(参照:「みなみやはたの歩み 第1集 水」、南八幡郷土史会、平成13年)
高崎市史(資料編11、P437)には、カスリーン台風直後の『群馬新報』(メリーランド大学所蔵・ブランゲ文庫、昭和22年9月17日)の記事が転載されています。この記事には、カスリーン台風では高崎地区では堤防決壊がなかったため、被害は最小限に止まったという記述があります。
烏川 一本松橋から上流側を望む。かなたに榛名連山。
榛名連山の向こうには、八ッ場ダム予定地のある吾妻川が流れています。
カモもいました。(撮影:10月19日)