今朝の毎日新聞全国版に八ッ場ダムが取り上げられましたので、転載します。
◆毎日新聞 2012年11月18日 東京朝刊
http://senkyo.mainichi.jp/news/20121118ddm041010113000c.html
-信じたものは:検証・民主党マニフェスト/1 八ッ場ダムは中止。時代に合わない国の大型直轄事業は…ー
◆八ッ場ダムは中止。時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直す
◇地元の26歳「古い政治、変わらず」 町疲弊、不毛さ痛感
<暮らしのための政治を>。そんな民主党の09年マニフェスト(政権公約)に多くの人が期待し、票を投じてから3年余り。衆院選を1カ月後に控え、あの時「信じたもの」の行く末を、現場からたどった。
「バンザーイ」
居並ぶ「推進派」住民たちが万歳三唱をしていた。昨年12月22日夜。前田武志国土交通相(当時)が急きょ八ッ場(やんば)ダムが計画されている群馬県長野原町を訪れ、一部の住民を集めて「建設再開」を発表した時の光景だ。
このニュースをテレビで知った渡(わたり)陽平さん(26)は怒りを抑えられなかった。「バカにするな」。ダム中止を掲げ衆院選に大勝した民主党に「裏切られた」と感じた。
いま地元ではダムを前提とした橋や道路の建設が進むが、本体工事は着工の条件である流域全体の河川整備計画すらできていない。
来月の衆院選を控え、渡さんは言う。「3年ちょっとで、古くからの政治を変えるのは無理だったのかもしれない。自分の1票を無駄にする気はありませんが、どこに投票していいのか」
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民主党政権がスタートした09年9月。前原誠司氏は国交相に就任するや「マニフェストに書いてある」として八ッ場ダムの中止を宣言した。
同年暮れ、ダム湖にかける橋の建設を続けるかが、国の予算編成の焦点になった。「橋を造ればダムも造る、という誤ったメッセージになる」。
ダムに反対する地元出身の衆院議員、中島政希氏らが声を上げると、すぐ前原国交相から電話が来た。「橋のことは知らなかった。今(官僚に)問いただしている」
3カ月後、前原国交相は橋の建設継続を表明したが「ダム本体の工事は(国交相の諮問機関である)有識者会議で中止になるから問題ない」とまだ強気だった。
しかし同省OBながら無駄なダム建設を批判する宮本博司さん(59)は前原氏から会議のメンバーに入るよう要請されていたが、発表されたメンバーに自分の名はなく、大半はダム推進派だった。
「目的を与えられたらあらゆる手を使ってやり遂げるのが官僚。官僚を使いこなす覚悟としたたかさが、民主党には足りなかった。
『コンクリートから人へ』と訴えたが、コンクリートにお墨付きを与えてしまった」と宮本さん。中島氏は「建設再開」後に民主を離党した。「新しい価値観で公共事業を作り直そうという民主党の試みは、挫折した」
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ダム計画が浮上したのは1952年。渡さんは小中学校で「ダムができれば地域が栄える」と教えられた。
だが、隣町の高校に電車通学するようになってもダムはできず、目につくのは寂れた古里の姿。「ダムなんて自然を壊すだけだ」。夕食時、ダムを容認する父一彦さん(56)に議論を吹っかけるようになった。一彦さんは黙ってビールを飲んでいた。
兼業農家の一彦さんもかつては反対派だった。しかし85年、町が住民の生活再建を条件にダムを受け入れると「これ以上、水を差したくない」と考えを変えた。長い闘争で地域は疲弊し、54人いた渡さんの中学の同級生も町に残るのは数人だ。
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最 近、渡さんは変わった。推進派の人とも笑顔で話す。父に議論を挑むこともない。「意見は違っても互いに相手を理解していかないと、対立が続くままですから」。政治に与えられた幻滅に、地域で争う不毛さを教えられたのかもしれない。
一家が受け継いできた約30アールの水田はダムの水没予定地にある。トラクターも入れづらい場所だが、沢から清水が流れ込み、取れるコメは「本当においしい」。
会社勤めの渡さんはたまに農作業を手伝う程度だが、この秋も一家6人で稲刈りをした。予定では再来年、代替地の大きな田んぼに移る。
「でも先祖代々の土地で、家族が愛情をこめて作業するのはかけがえのないこと。父も本当は水没するのが嫌なのか、新しい田んぼに行けるとうれしいのか、わかりません」【奥山はるな、安高晋】=つづく