西日本の記録的豪雨で多くの犠牲者が出た、岡山県倉敷市真備町の浸水被害についての記事です。
◆2018年7月9日 日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO32759000Z00C18A7CC0000/
ー堤防2カ所、150メートル決壊 小田川 支流の水、本流に流れず?ー
岡山県倉敷市真備町地区の浸水被害で、付近を流れる小田川の堤防が少なくとも2カ所で計約150メートルにわたり決壊していたことが9日、国土交通省への取材で分かった。決壊したのは本流の高梁川と合流する地点の近くだった。現地調査した専門家は支流の水が本流の流れにせき止められる形で、支流の水位が上がる「バックウオーター」現象が起きた可能性を指摘した。
同省中国地方整備局によると小田川では、高梁川との合流地点から上流へ約3.4キロの地点で約100メートル、約6.4キロ地点で約50メートルにわたり堤防が決壊した。
現地を調べた岡山大の前野詩朗教授(河川工学)によると、2つの河川の合流地点は川幅が狭いうえ湾曲しており、もともと水が流れにくい。記録的大雨で両河川とも増水していた7日前後の状況について、前野教授は「小田川の水が本流に流れ込みにくくなるバックウオーター現象が起き、合流地点よりも上流で堤防を決壊させた可能性がある」と指摘した。
現場付近では過去にも台風などで浸水被害があった。国交省は水の流れを改善するため川の合流地点を下流に付け替える事業を決定し、今秋に着工予定だった。前野教授は「工事が行われていれば、今回のような甚大な被害を防げた可能性がある」と話した。
河川の合流地点近くでの洪水被害は2015年の関東・東北豪雨で宮城県大崎市でも起きた。本流との合流地点付近で支流の水位が上がって堤防が決壊し、500棟以上が浸水。東北大などの研究チームは「バックウオーター現象が起きていた可能性が高い」とする調査結果をまとめている。
◆2018年7月14日 毎日新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180714-00000010-mai-soci
ー<西日本豪雨>6カ所決壊、真備支流 岡山県が20年放置ー
西日本を襲った記録的豪雨に伴う河川の氾濫で多数の犠牲者が出た岡山県倉敷市真備町地区では、2カ所が決壊した小田川だけでなく、その支流である三つの河川も決壊していたことが県への取材で判明した。この3河川はいずれも、国から委任された県の管轄だが、法定の河川整備計画が定められておらず、維持管理がほとんどされていなかった実態も明らかになった。県は「計画は水害対策に必要で、早期に策定すべきだった」と非を認めている。
今回の水害では、水位の高まった本流の1級河川・高梁川が支流の小田川の流れをせき止める「バックウオーター現象」が起きた可能性が指摘されている。だが、複数ある支流のどの川から決壊が始まったかは分かっていない。ただ、国土交通省が設置した調査委員会のメンバーの一人は小田川の支流の一つ、高馬(たかま)川でもバックウオーター現象が起こる中で、高馬川が決壊し、それが引き金となって小田川の堤防の外側が削られ、小田川の決壊につながった可能性を指摘している。また、小田川の別の支流で、決壊した末政川の周辺は死者が多く出るなど被害が甚大で、今後県の対応が問題化する可能性がある。
国交省によると、小田川は、高梁川との合流地点の手前3.4キロなど2カ所で50~100メートル程度決壊。その後の県の調査で決壊地点から北に延びる高馬川(1.3キロ)▽その上流から南に延びる真谷(まだに)川(4.6キロ)▽小田川から北に延びる末政川(4.4キロ)--の計6カ所でも20~300メートルにわたって決壊が見つかった。
県によると、この3河川は1997年施行の改正河川法により、河川整備計画の策定が義務付けられた1級河川。整備計画では通常、河川の特徴や堤防の維持管理、災害時の復旧方法を定める。だが県は20年以上にわたって計画作成を怠り、3河川の深さや川幅、堤防の高さも把握していなかった。県に残る維持管理に関するデータは、年1回の法定点検を昨年に目視で実施したとの記録のみという。
県河川課は「20年間策定できていないことを重く受け止めている。決壊と計画がないことの因果関係については何も答えられない」と話している。【津久井達、高橋祐貴】
◆2018年7月13日 東洋経済
https://toyokeizai.net/articles/-/229270
ー真備町浸水、50年間棚上げされた「改修計画」 政治に振り回されている間に、Xデーは訪れたー
未曾有の豪雨災害に見舞われた西日本では、現在も懸命の復旧作業が続く。
特に被害が大きかったのは、岡山県倉敷市真備町での堤防決壊だ。現場は高梁川と小田川が合流する手前で、本流である高梁川の水位上昇により、支流の小田川の水が流れにくくなったことが、堤防決壊の引き金となった。
半世紀前からあった計画
小田川をめぐっては、高梁川との合流地点を付け替える工事が今秋に予定されていた。小田川が高梁川と合流する位置を現在より約4.6キロメートル下流に移動させることで、合流部分の洪水時の水位低下を図るものだ。
もっと早く対策しておけば――そんな声も漏れ伝わる一方、工事は一筋縄ではいかない現実が横たわる。計画自体は50年も前から存在していたにもかかわらず、なぜ現在まで着工に至らなかったのか。
高梁川と小田川の流域は、幾度となく水害に悩まされてきた。1893年10月に上陸した台風では、岡山県全域で床下・床上浸水5万0209万戸、全半壊1万2920戸という被害に遭った。そこで東西に分岐して海に流れていた高梁川を西側に一本化し、東側は埋め立て、西側の一部は貯水池として整備された。だが、その後もたびたび洪水に見舞われたため、治水の重要性が再び浮上してきた。
そんな中、小田川の合流地点付け替え工事は2007年に基本方針が策定された。今秋に予定される工事は11年越しとなるわけだが、実は前身となった計画は昭和にまでさかのぼる。もともとは治水対策としてダム建設が計画されていたからだ。
1968年、旧建設省は柳井原堰(ダム)建設の構想を発表した。場所は今回の小田川付け替え工事完了後の合流部分に当たり、水害の相次ぐ小田川の治水と、水島コンビナートを中心に渇水にあえぐ下流地域の水源開発が目的だった。
建設予定地は倉敷市と船穂町(現倉敷市船穂町)にまたがっていたが、船穂町は柳井原堰の建設に猛反発した。第一に、治水の恩恵は上流の真備町(現倉敷市真備町)などの小田川流域、利水の恩恵は下流の倉敷市などの都市部が中心で、船穂町には大きなメリットがなかった。加えて、明治から大正時代に行われた、東西に分かれていた高梁川を一本化する工事にて、船穂町の一部の集落が貯水池の底に沈んだという苦い過去も想起された。1980年には周辺自治体が開発を促進する会を結成し幾多の交渉が続けられたものの、船穂町は慎重姿勢を崩さず計画はたなざらしとなった。
ようやく日の目を見るはずだった
ところが1995年2月、事態は急展開を迎える。船穂町が硬化させていた態度を一転させ、建設省および岡山県との間で柳井原堰建設の覚書を締結したのだ。背景には、周辺自治体に比べて開発の遅れていることへの焦りがあった。柳井原堰の建設計画の行方が定まらぬままで、大規模な都市開発やインフラ整備を実施できていなかった。同時期に進められていたポッカコーポレーション(現ポッカサッポロフード&ビバレッジ)の工場誘致も、用地買収が難航し黄信号が灯っていた。
そこで建設と引き換えに、覚書には、船穂町振興計画の実施に向けて国と県、町が協力することを盛り込んだ。バイパスや下水道の建設、農業集落の整備など計36項目、総額630億円の支援事業が並んだ。建設容認を通じて、町の未来を託した格好だ。
同時に、柳井原堰建設を1997年から開始することについても合意。2008年頃には竣工する計画だった。建設省の発表から27年、ダム建設計画はようやく日の目を見る――はずだった。
建設に向けた準備が少しずつ進んでいたさなかだった。「国が建設を進めている船穂町の柳井原堰(中略)については、本体工事未着手のこの段階で見直しを行いたいと考えております」。2002年6月10日、岡山県知事はダムの建設中止を突然表明した。倉敷市長や船穂町長でさえ「青天の霹靂(へきれき)だった」と言う突然の中止宣言。いったい何が起きたのか。
背景には、1968年の計画発表時から30年以上が経過し、社会情勢が様変わりしていたことがある。当時の倉敷市の推計によれば、1日当たりの計画水量を32.2万トンとしていたが、実際の使用量は20万トン程度にとどまり、利水としてのダムの意義は薄れていた。本来は治水対策のはずの柳井原堰だったが、倉敷市議会からは「(倉敷市に)関係があるのは(総工費600億円のうち)2割の利水。柳井原堰はメリットが本当にあるのか」という声も上がった。
折しも、バブル崩壊後の景気後退を受け、国は公共事業の見直しを進めていた。建設省は計画の進捗が見られないダムの建設中止を次々と決定した。柳井原堰は幸い中止を免れたものの、事業主体である岡山県の財政状況も厳しさを増すなど、逆風は確実に吹いていた。
結局、関係自治体の間でダムがなくても安定して水を供給できるという結論に達し、2002年秋、柳井原堰の建設中止を中国地方整備局に正式に申し出た。翌年の事業評価にて、中国地整は「中止は確定したが、高梁川ならびに小田川の治水対策を行う必要があるため、今後、早期に小田川合流点の付け替え処理等抜本的な治水対策を行う必要がある」と指摘したものの、小田川の治水対策は事実上振り出しに戻った。
その後、2005年には政令指定都市を目指す倉敷市が、真備町と船穂町を編入合併している。
「被害は軽減できた」
2007年8月に柳井原堰を除いた小田川の改修工事の基本方針が、2010年には具体的な整備計画が策定された。環境アセスメントなどを経た後、2014年にようやく国土交通省の予算がついた。この間、堤防の整備や川底に堆積した土砂の掘削など、小田川の部分的な治水工事は細々と行われたものの、抜本的な工事は今秋から始まる予定だった。その直前に、地域一帯を豪雨が襲った。
国交省の計画によれば、仮に付け替え工事が完了していたら、ピーク時の水位は最大6~7メートル低下し、堤防の外側の土地よりも水位が高まる(洪水の危険がある)時間も、対策前の80~90時間から20時間にまで抑えられていたという。「被害を防げたとはいえないが、軽減はできたかもしれない」(中国地整)。現在は盛り土や土嚢(どのう)による仮復旧の状態。付け替え工事は今後も進めていくが、「計画よりも早めに進めたい」(同)。
一度災害が発生すると対策が急速に進むことは、裏を返せば災害が起こるまで対策は進まないことを意味する。小田川の氾濫対策は、かねて警鐘が鳴らされていた。倉敷市が公表している「第六次総合計画施策評価シート(平成29年度)」では、防災政策に関する市民からのアンケート結果として「高い重要度に見合った満足度が得られていない領域」という評価が下されるなど、住民の中でも災害に対する懸念は根強かった。
それでも、政治や利害対立に揉まれた結果、計画から工事着手まで50年も要した。行政評価に詳しい高崎経済大学地域政策学部の佐藤徹教授は、「どの事業も重要であるから(政策に)優先順位をつけたくない、というのが行政の本音ではないか。(優先順位を付けたとしても)結果を踏まえた予算配分を行う、という仕組みがないと予算には結びつかない」と指摘する。
付け替え工事の完了はおよそ10年後を予定している。その間、豪雨に襲われない保証はどこにもない。小田川の堤防決壊は、防災政策の優先順位を高める必要性をわれわれに示している。