八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

水没する川原湯旧温泉街の巨石、掘り出して埋め戻し

 八ッ場ダム水没予定地にあった川原湯温泉の共同湯、王湯の傍には、かつて巨石がありました。
 「衣掛け石」、「大石」、「神代石」などと呼ばれた石は、昭和初期の道路拡張工事で埋められ、お年寄りが語り伝えるだけでした。その巨石が、ダムの関連工事で8月に出土したものの、再び埋め戻されていたことを先ごろ朝日新聞が報道しました。
 現場は水没線ぎりぎりの標高で、周辺では現在、町道建設工事と川原湯温泉の旧源泉(元の湯)の保護対策工事が行われています。(写真右)

 Yahoo!ニュースでも巨石の写真と共に取り上げられています。
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◆2018年12月16日 朝日新聞デジタル
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181216-00000018-asahi-soci
ー八ツ場ダム建設現場に巨石、頼朝ゆかり? 旧温泉街そばー

写真=出土した巨石の写真3枚(国土交通省八ッ場ダム工事事務所提供)など。
https://digital.asahi.com/articles/photo/AS20181215001854.html?ref=yahoo
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 大岩が最初に埋められたのは、昭和5(1930) 年の豪雨の後でした。昭和5(1930)年8月1日、6月以来悪天候が続き、地盤が緩んでいた金鶏山の麓の川原湯周辺は、大雨による山津波に襲われました。この時の豪雨は、吾妻川対岸の川原畑・穴山沢でも地すべりを起こしました。このため、それまで多くの旅人が利用していた川原畑の旧街道に代わって、川原湯温泉街の道(県道川原湯川原湯停車場線、写真右=2008年撮影)が利用されるようになりました。
 温泉街の坂道は、険しい崖沿いに穿たれた狭い道で、両側には旅館や店が軒を連ねていました。王湯と川原湯神社の鳥居に挟まれた部分はトラックが通るには狭すぎたため、道路の拡幅工事が行われ、この工事の際に大石は埋められたということです。
(参考文献:「緑の原に風立ちて」(豊田文次郎、関東建設弘済会)、「長野原町の民俗」(長野原町)、「長野原町誌」)

 川原湯温泉では浅間狩りをした源頼朝が川原湯に立ち寄ったとの伝説があります。この伝説を拠り所として、共同湯・王湯に源氏の紋所といわれる笹リンドウを掲げ、巨石は頼朝が入浴の際に衣をかけた石だという言い伝えが生まれました。
 川原湯温泉に住む豊田政子さんは昔語りとして、「この石は、翌日が雨天の場合は黒くくすみ、晴れの場合は白くなって乾いてくるという。」と書かれています。(「春雷の時」)

 巨石がみつかったことを伝える今回の記事には、国交省八ッ場ダム工事事務所が提供した巨石の写真も掲載されています。写真を見ると、白に黒のまだら模様が入り、密度の高い岩のようです。代替地に整備された王湯会館の玄関前にも、模造の「衣掛け石」が置かれていますが、色も形も本物とはだいぶ違います。(写真右)
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181216-00000018-asahi-soci.view-000

 以下の朝日新聞群馬版の記事は、Yahoo!掲載記事の元の記事ですが、地元、川原湯の区長を務める豊田拓司さんと国土交通省八ッ場ダム工事事務所の発言を伝える後半の部分がカットされずに掲載されています。
 国土交通省は莫大なコストと半世紀以上の歳月をかけて、かけがえのない自然を破壊して不要なダムを建設しながら、一方で、貴重な岩が出土しても、住民以外に公表することなく埋め戻し、「コストや工期の問題」を理由に巨石の保存に後ろ向きのようです。

◆2018年12月16日 朝日新聞
http://www.asahi.com/area/gunma/articles/MTW20181217100580001.html
ー八ツ場ダム建設現場に巨石、頼朝ゆかり? 旧温泉街そばー

 国が2019年度末の完成に向けて工事を進める八ツ場ダム建設現場の群馬県長野原町川原湯地区で、推定約35トンの巨石が掘り出された。見つかった場所は、かつて温泉街の共同浴場「王湯」があった場所のすぐそば。温泉の由来として地元で語り継がれてきた源頼朝ゆかりの「衣掛け石」では――。地元ではそんな声が上がっている。

 国土交通省八ツ場ダム工事事務所によると、この巨石はダム湖岸の公園予定地付近を工事中の今年8月、地中から見つかった。高さ2・6メートル、周囲は10メートルに及ぶ。10月中旬に地元住民を招いて見学会を開き、その後埋め戻した。

 長野原町誌などによると、川原湯温泉は1193年に源頼朝が開いたという伝承がある。頼朝が湯につかった際、脱いだ衣を掛けたとされる「衣掛け石」が長らく共同浴場「王湯」の前にあった。だが1930(昭和5)年ごろ、豪雨被害後の道路拡張工事のため地中に埋められたという。

 2014年に高台の代替地に移転オープンした現在の王湯会館の前には、衣掛け石のレプリカが飾られている。

 明治時代の衣掛け石の写真と今回発見された石を比べると頂点が一部削られているが、形は似ている。同一とすれば、約90年ぶりに日の目を見たことになる。

 八ツ場ダム予定地に関係する土地の伝承を集めた「長野原町の昔ばなし」(1997年)では、大正生まれで地元育ちの豊田嘉雄さん(2007年死去)が「すべって遊んだりした大きい石だった」などと語っている。

 豊田さんの次男で、川原湯温泉の移転代替地で「やまた旅館」を営む拓司さん(66)は「せっかく見つかったものなので、何か目で見て分かるものを残せればいいね」と話す。

 観光のシンボルにと期待する声が出ている一方、工事事務所は「石がもろくなっており、技術的に動かすのが困難。コストや工期の問題もあり、活用するのは難しい」としている。(山崎輝史)

—転載終わり—

写真=水没線ギリギリの位置にある川原湯温泉の王湯跡周辺。ダムに沈む源泉の湧出口にダム湖の水が入らないよう、源泉を井筒で保護する対策工事が行われている。2018年11月14日撮影。