群馬県の旧民主党系の重鎮である角田義一さんのインタビュー記事が毎日新聞に掲載されました。旧民主党が2009年の政権交代の際に掲げた「八ッ場ダム中止」のマニフェストについて、角田氏の見解が述べられています。同様の内容は、昨年、上毛新聞に掲載された角田氏の自伝(連載記事)にも記述されていました。
旧民主党がマニフェストに初めて「八ッ場ダム中止」を掲げたのは、2005年の衆院選の時でした。この時は政権交代には至りませんでしたので、マニフェストもそれほど注目されませんでしたが、角田氏ら元社会党の議員らが「八ッ場ダム中止」に不賛成であると言われ、マニフェストに入るかどうかはギリギリまで決まらなかったといわれます。
(右写真=水没予定地の国道沿いにあった川原湯温泉の看板。2005年8月5日撮影)
角田氏はその後、引退した為、2009年のマニフェストの際には抵抗勢力とはなりませんでしたが、今回のインタビュー記事では、マニフェストに掲げられた「八ッ場ダム中止」を「冷ややかに見つめていた」とし、「遅すぎたし、パフォーマンスが過ぎたんだな。」と述懐しています。
民主党政権による失敗を事前に洞察していたともとれる発言ですが、「現地に泊まり込んで反対運動をしたこともある」角田氏にとって、八ッ場ダムは他人事のように突き放して語れることではない筈です。
インタビューでも語っているように、地元が長いダム闘争に疲れ果て、国の八ッ場ダム計画を受け入れる際、参議院議員だった角田氏は「自民党議員と一緒に全会派を奔走し、(群馬県議会において)生活再建法案を全会一致で通し」ました。しかし、1985年に地元がダム計画を受け入れて以降、角田氏ら社会党議員は八ッ場ダム問題から遠ざかりました。「生活再建案」が絵に描いた餅となり、地元が衰退の一途を辿ってゆく中で、県議会では自民党、旧社会党いずれの議員も状況を傍観しているだけでした。
旧社会党のこうした姿勢は、地元では政争として地元住民を利用しただけと映ったようです。地元住民を利用したという点では、自民党の方がはるかに上手でしたが、政治権力を握る自民党はいつでも、国策としての八ッ場ダム事業が支配する地元にとって頼みの綱です。2009年の総選挙の際、民主党は地元に地盤がなく、ダム予定地を抱える選挙区(群馬5区)で自民党の小渕優子衆院議員に対して対立候補を立てることすらできませんでした。
民主党政権による八ッ場ダム中止政策の頓挫の最も大きな要因は、前原国交大臣による政権発足当初の国交省内での稚拙な対応にありますが、角田氏らの過去が地元が民主党政権と距離を置く結果となり、政策実現の足を引っ張ったという一面もあります。
インタビュー記事の後半では、平和や護憲についての角田氏の熱い想いが取り上げられています。議員引退後も取り組んできたこれらの問題の何分の一かでも、八ッ場ダム問題に関心があったならと思います。
民主党政権時代、群馬県議会では角倉邦良議員(現・立憲民主)の働きかけで、入込客数の減少が続く川原湯温泉の支援策として、宿泊助成制度が導入されることが決まりました。川原湯温泉のリピーター等の宿泊費を3000円割り引く宿泊助成制度は、自民党政権になった今も維持されています。
本来、地元と太いパイプがあり、県議会でも大きな勢力を誇る自民党議員は、地元住民への丹念な聴き取り、住民の代弁者として国に要望を持っていくのが仕事の筈ですが、自民党から聞こえてくるのは、国のダム事業推進を諸手を挙げて応援する声ばかりです。
◆2019年1月11日 毎日新聞群馬版
https://mainichi.jp/articles/20190111/ddl/k10/040/152000c
ー平成ものがたり 群馬の記憶 第1部/8 元参院副議長・角田義一さん 前橋市出身/上 八ッ場ダム、建設迷走 /群馬ー
「民主政権、ビジョン不十分」
かつて国会で白髪をふり乱し論戦を交わす姿から「ホワイトタイガー」の異名を取った元参院副議長の角田義一さん(81)=前橋市。平成元(1989)年から3期18年、社会党、民主党の重鎮として長らく活躍してきた。政界引退後も“ご意見番”としてその存在感が衰えることはない。舌鋒鋭く、平成の政治史を振り返ってもらった。【杉直樹】
平成21(2009)年は日本の憲政史上初となる本格的な政権交代が行われた年になった。8月の衆院選で民主党は308議席を獲得し圧勝、自民党政権を倒した。その波は保守王国群馬にも押し寄せた。それまで自民党が独占していた5小選挙区のうち民主党が3議席を奪った。角田さんは平成19(07)年に政界を引退したが、応援弁士として県内を走り回った。
選挙中、街頭演説の雰囲気はこれまでとは全然違ったよ。まるで印籠(いんろう)を見せつける水戸黄門のように「政権交代、政権交代」と叫ぶだけで良かった。「政権交代」と言うのに10秒とかからない。そんな選挙は経験したことがなかった。「保守王国の群馬でもついに」という思いがこみ上げたね。民衆の力、主権在民を反映した結果であり、平成8(1996)年に導入された小選挙区制の恐ろしさが如実に出た選挙でしょうね。
しかし、民主党政権は迷走する。その象徴ともいえるのが八ッ場ダム(長野原町)だった。政権交代直後の9月17日、前原誠司国土交通相(当時)は建設中止を表明する。一躍世間の注目を集めたが、角田さんは冷ややかに見つめていた。
八ッ場ダムは私が県議だった80年代末、社会党は「建設反対」から「生活再建」に転換したわけですよ。現地に泊まり込んで反対運動をしたこともあるが、参院議員時代には自民党議員と一緒に全会派を奔走し、生活再建法案を全会一致で通した。前原さんはそうした歴史を無視し、地元と事前に妥協点を模索することもなく、「マニフェスト通りに」と建設中止を表明したんだ。遅すぎたし、パフォーマンスが過ぎたんだな。
民主は政治手法が稚拙だったと言わざるを得ないね。政権交代自体が目的になり、その後のビジョンが不十分だった。政権運営を経験したベテランが少なくて、「政治主導」を掲げて官僚を敵視する向きもあった。選挙で勝たせてもらった人たちが国家運営の難しさを認識していたのか疑問です。
期待が大きかった分、有権者の失望は大きかった。平成24(12)年の衆院選で自民が政権を奪取する。以降、安倍「1強」体制の下、安全保障のあり方が大きく変わっていく。平成27(15)年、集団的自衛権の行使容認を柱とした安保関連法案が成立する。
この法案が成立したことで日本の国の形は根本的に変わったよ。群馬は4人の総理大臣を輩出したが、集団的自衛権を認めた人は一人もいなかった。安倍さんはその意味で“アンチ保守”であり、専守防衛を訴える私の方がよっぽど保守主義者だよ。集団的自衛権を認めると、戦争当事国になる。原発にミサイルが命中すれば、この狭い国土に人は住めなくなる。法案の成立で、眠れないほどの不安を感じましたよ。
危機感を抱いた角田さんは、平成26(14)年に市民団体「戦争をさせない1000人委員会・群馬」を結成し、共同代表に就いた。
私の原体験は小学1年時の戦争。空襲警報が鳴ると母親にじめじめした真っ暗な防空壕(ごう)へ連れられ、大型爆撃機「B29」が去るのを待つのが怖かった。終戦年の8月5日、前橋空襲の夜は疎開した赤城山麓(さんろく)の実家の窓から真っ赤に燃える前橋が見え、犬がワンワンとほえていた。この頃の記憶は今でも鮮明に残っていますよ。
市民団体はデモや集会を重ね、集団的自衛権の行使容認は違憲だと訴え続けています。そういう運動があって、平成28(16)年の参院選では県内でも野党共闘が実現したんだ。共闘というのは、運動の場がなければうまくはいかないですよ。=つづく