民主党政権が球磨川水系の川辺川ダム計画の中止を表明して丸10年になります。
関係都県のすべての知事が推進を主張した八ッ場ダムは継続となりましたが、流域の首長と熊本県知事が白紙撤回を求めた川辺川ダムは、当時の前原国交大臣の中止表明により本体工事着工の手前で休止となりました。しかし、国交省九州地方整備局は川辺川ダム基本計画を廃止していません。川辺川ダムを中止するためには、川辺川ダムなしの河川整備計画の策定が必要だとされていますが、その作業が進んでいないためです。ダム行政を担うは組織の維持にとって必要な川辺川ダム事業の復活を企図していると言われます。
地元の熊本日日新聞の関連記事を紹介します。
一つ目は川辺川ダムの中止を表明した当時の前原誠司国土交通大臣へのインタビュー記事です。
当時、前原氏は八ッ場ダムの中止と全国の143ダムの見直しも明言しましたが、ダム事業の見直しを河川官僚に丸投げしたため、八ッ場ダムをはじめ、問題のある全国のダム事業がダム行政みずからによる形ばかりの「ダム検証」を経て継続されることになりました。復活した自公政権は、「ダム検証」というお墨付きができたことで、「国土強靭化」の掛け声の下、八ッ場ダム等のダム事業を強力に推進してきました。
熊本日日新聞は、前原大臣が「ダム事業の廃止等に伴う特定地域の振興に関する特別措置法案」(ダム中止法案)を打ち出した」としていますが、この法案は前原氏が主導したものではありません。
わが国にはダム中止を前提とした法整備がないことから、ダム事業に長年翻弄されてきたダム予定地域の住民は、事業が中止になると生活基盤を失いかねません。巨大な利権がからむダム偏重の河川行政の見直しには、ダム中止を前提とした法整備が不可欠であることから、2001年、水源開発問題全国連絡会(水源連)の嶋津暉之さんが市民案として「ダム中止後の生活再建支援法案」をまとめ、2007年に八ッ場あしたの会が発足すると、あしたの会と共に法案の実現を国会へ働きかけました。
民主党政権下では、民主党の「八ッ場ダム等の地元住民の生活再建を考える議員連盟」(会長:川内博史衆議院議員)が市民案を叩き台として、2011年9月に「ダム事業の廃止等に伴う特定地域の振興に関する特別措置法案」(仮称)を発表、その後、この法案をベースにしてつくられた「ダム事業の廃止等に伴う特定地域の振興に関する特別措置法案」が2012年3月に閣議決定され、国会に上程されました。当時、すでに八ッ場ダム事業は継続が決定していましたが、本体工事着工直前で休止状態となった川辺川ダムの予定地である熊本県五木村では、この法案が実現することが期待されました。しかし政権再交代により、法案は審議されないまま同年12月に廃案になりました。
ダム中止法案の経緯については、こちらのページにまとめています。
〈参考ページ〉「解決の糸口」
◆2019年9月17日 熊本日日新聞
https://kumanichi.com/feature/kawabegawa/1189804/
ー【川辺川ダム計画の今 中止表明から10年】(1)前原誠司元国交相 再度建設方針、あり得るー
◇まえはら・せいじ 京都大卒。京都府議を経て、1993年、衆院初当選。民主党政権で国交相、外相、国家戦略担当相などを務めた。京都2区。当選9回。国民民主党。57歳。
球磨川流域の川辺川ダム計画は、民主党政権が中止を表明して、17日で丸10年を迎えた。計画発表から半世紀近い時を経た中止表明は、大型公共事業の在り方に一石を投じたが、ダムに代わる治水対策や水没予定地だった五木村の振興など多くの課題を残す。連載「川辺川ダム計画の今」は関係者へのインタビューで現状に迫る。初回は中止表明した当時の国土交通相・前原誠司衆院議員に聞いた。
蒲島郁夫知事が川辺川ダムの建設反対を表明した1年後。2009年に発足した民主党政権で初代となる国交相となり、9月17日の就任会見で同計画の中止を表明した。
「ダム計画は一度決まったら止まらない公共事業の象徴だった。計画決定から40~50年たっても本体工事に至らず、周辺環境が大きく変わったダム事業は見直しが当然と考えた。川辺川ダムは、潮谷義子元知事が慎重姿勢を貫き、蒲島知事は明確に反対を示した。地元と同じ方向で進むことができた」
中止表明の10日後、水没予定地を抱える五木村を視察。「再びダムに戻ることはない」と明言し、村の生活再建事業を完遂するための「ダム事業の廃止等に伴う特定地域の振興に関する特別措置法案」(ダム中止法案)を打ち出した。だが、閣議決定までは至ったものの、成立することはなかった。
「生まれ育った地域が水没する計画に賛成する人はいない。苦渋の決断でダム建設を受け入れた歴史がある。政治によって翻弄[ほんろう]し、申し訳ない思いでいっぱいだった。法案は中止後の生活を補償する仕組みで、川辺川を全国のモデルにする考えだった。成立できなかったのは、10年の参院選で大敗し、衆院とのねじれが生じて推進力が失われたのが原因だった」
川辺川ダムと同時に中止を表明した八ツ場ダム(群馬県)はその後、同じ民主党の野田佳彦内閣で建設再開に転換。自民・公明の連立政権に戻った15年に本体着工に着手し、20年3月に完成予定だ。
「それも国会のねじれの影響だ。国交省でダムの有効性を信じる勢力が勢いを取り戻し、私の後任の国交相が押された。マニフェストに掲げた公約を覆すのだから、私とすればはしごを外された形。民主党に対する『公約違反』の批判も高まり、じくじたる思いだった。だが本体未着工のダムを再検証し、実際に中止になった事業もある。止まらない公共事業に立ち止まる機会をもたらした点で意義があった」
川辺川ダムの中止表明から10年。国、県、流域市町村による「ダムによらない治水」の検討が続けられているが、結論には程遠い状況だ。
「地元で議論を重ね、結論を導いてもらうしかない。昨年7月の西日本豪雨では、愛媛県・肱川[ひじかわ]がダムの緊急放流であふれ、犠牲者が出た。人吉市を訪ねた際、住民から『市房ダムが完成して水位が急に上がるようになった』と聞いた。ダムが有効な雨の降り方があれば、そうでないケースもある。ダムの危険性を踏まえた科学的検討を求めたい」
川辺川ダム計画は治水代替策の議論が継続中として、特定多目的ダム法に基づく事業廃止の手続きはとられていない。
「川辺川の場合、事業費を負担する立場の県知事をはじめ、ダムなしの姿勢を貫く地元首長の存在が大きい。仮にダムを容認する首長が誕生すれば、再度、建設に方針が戻ることもあり得る。代替案が決まらないのは、国がダムでやりたいと思っているからではないのか」(聞き手・並松昭光)
◆2019年9月16日 熊本日日新聞
https://kumanichi.com/feature/kawabegawa/1189100/
ー「川辺川ダム」残る名称 進まぬ手続き、復活警戒も 国交相・計画中止表明10年ー
2009年、当時の前原誠司国土交通相が川辺川ダム建設計画の中止を表明して17日で10年。ダム計画は止まったが、特定多目的ダム法に基づく廃止手続きは取られておらず、法的に終止符は打たれていない。それを象徴するように国、県の関係機関には「川辺川ダム」の名称が残ったまま。ダム反対派の市民団体からは、計画の復活を警戒する声も上がっている。
熊本県相良村柳瀬の「国土交通省九州地方整備局川辺川ダム砂防事務所」。1967年にダム建設事業の最前線拠点として発足した。
前原氏の中止表明後も、水没予定地を抱える五木村で頭地大橋の建設などダム関連4事業を継続し、13年度までに全て終えた。ただ、現在も年間約4億3千万円を投じて水没予定地の維持管理などを続ける。
九地整の浦山洋一河川調査官は「中止はあくまで本体工事。基本計画は残っており、ダムの関連事業は今も実施している。事務所の名称変更は想定していない」と説明する。
一方、県庁本館6階の「川辺川ダム総合対策課」。五木村振興や、ダムに代わる球磨川流域の治水を考える国と県、地元自治体の協議などを担う。吉野昇治課長は「ダムから生じたさまざまな問題について総合的な対策を講じており、課名が実態と合っていないとは思わない」と強調する。
蒲島郁夫知事の「白紙撤回」表明を受け、09年に始まった治水協議の場。「ダムによらない治水策を極限まで追求する」(蒲島知事)として、河床掘削、堤防強化など戦後最大の洪水に対応できる方策を議論しているが、10年過ぎた今も決着していない。
ダム反対を訴える市民団体「子守唄[うた]の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」の中島康代表(79)=熊本市=は「名称を変えない裏側には、ダム計画をやめたくないという国、県の強い意思があるように感じる」と警戒。「知事が白紙に戻すと表明した以上、早く具体的な手続きに入るべきだ。行政は一度決めたら、引き戻せないのか」と批判を強める。(臼杵大介)
◇川辺川ダム事業 建設省(現国土交通省)が1966年、球磨川流域の洪水防止を目的に計画を発表。のちに国営の農業利水と発電が加わり、総貯水量1億3300万立方メートルの九州最大級の多目的ダム計画になった。しかし、流域で賛否が割れる中、2007年に利水と発電が計画から撤退。08年、蒲島郁夫知事が白紙撤回を表明。09年に民主党政権が中止を打ち出した。
◆2019年9月18日 熊本日日新聞
https://kumanichi.com/feature/kawabegawa/1190903/
ー【川辺川ダム計画の今 中止表明から10年】(2)和田拓也・五木村長 村再建へ厳しさ続くー
わだ・たくや 村建設課長、企画振興課長、助役を歴任。07年の村長選で初当選し、現在3期目。10月6日投開票の村長選には、不出馬を表明している。72歳。
1966年、建設省(現・国土交通省)が発表した川辺川ダム建設計画は、五木村の中心部を水没させる構想だった。以降、村では水没予定地を中心に離村者が急増。過疎化が村全域で進行した。
「五木村は発電ダム建設を反対運動で撤回させた経験があり、村民には、川辺川ダムも阻止できるだろうという思いがあった。だが、治水中心のダムに県や流域市町村からも必要との声が上がり、最終的にダム計画を受け入れた。県や国によるダム計画の凍結は、『ダムありき』で地域振興を進めていた村にとって、はしごを外された形。時の政治に翻弄[ほんろう]されたと思っている」
2009年の民主党政権による計画中止表明後も、村の人口減少は続く。60年代に6千人超だった人口は、今年8月末時点で県内最少の1075人にまで減った。65歳以上の割合を示す高齢化率も、17年10月時点で県内で最も高い49%。商店も衰退し、村民の多くは現在、人吉市まで買い物に出掛けているという。
「村として一番困ったのは、国の目的は治水のためのダム建設であり、村の振興ではなかったことだ。ダム建設と引き換えに国が補償するはずだった事業は止まった。ダム計画を止めた当時の前原誠司国土交通相が言及した補償法案も、結局策定されていない。現状を考えるとダム計画が最初からなかったらよかったのに、と思う。急激な人口減少で財政は硬直化した。水没予定地にあった昔の風景が残っていれば観光にも活用できたはずだ」
村と県は09年、18年度を期限とした地域振興計画「ふるさと五木村づくり計画」を策定し、観光に力を入れた。国が買収した水没予定地を村が賃借し、村営公園「五木源パーク」と宿泊施設「森と渓流ITSUKI STAY」を整備。頭地代替地には村歴史文化交流館「ヒストリアテラス五木谷」を造った。振興計画策定前の08年に12万6951人だった観光客数は、17年には約37%増の17万4271人になるなど実を結んでいる。
「林業従事者を増やすのは難しいし、企業誘致ができるような地域でもない。村の活性化には山村の風景や子守唄を生かした観光業を発展させ、交流人口の増加を村全体の所得向上につなげる必要があった。一定の効果は出ているが、観光客1人当たりの消費額が少ないという課題が残っている。水没予定地の未整備エリアをできるだけ早く完成させ、農産物の販売や観光客の宿泊が増加すれば、村の発展につながるはずだ」
振興計画に基づき、移住促進策にも取り組んでいるが、人口減少に歯止めをかけるには程遠い。住民の活力維持のため、村のさらなる振興は喫緊の課題となっている。
蒲島郁夫知事が今年3月、振興計画の5年間延長と、総額3億円の財政支援を表明。村と県は6月、観光や林業の活性化、定住促進に事業を重点化する新たな実施計画の住民説明会を開いた。
「村の再建は厳しい状態が続いている。今後も観光業や林業、シイタケなど特産物生産を中心に村民の雇用を図り、人口減少に歯止めをかけないといけない。大切なのは人口構成。15歳以上65歳未満の生産年齢人口が少なくとも500人残り、高齢
化率が40%以下で推移するなら村を維持することができる。そこへ向かうための基礎、土台はこの10年でできたと思う。計画に基づく3億円の補助事業も活用していくことになるだろう」(聞き手・小山智史)