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石木ダム、機動隊に投げられても 嫁ぎ先で、ダム監視小屋に20年

 長崎県の石木ダム予定地では、半世紀余りにわたる長崎県のダム事業強行にあらがって、13世帯の住民が日々の暮らしを続けることでふるさとを守り続けています。
 ダムサイトにたつダム小屋には、毎日おばあさんたちが炬燵のある部屋に集い、長崎県の動向を監視してきましたが、年月が経つにつれ亡くなる方が多くなり、最後に残ったお二人のうちの一人がこのたび亡くなったということです。

 住民のお一人、石丸ほずみさんはこのダム小屋をミュージアムとして活用する構想をあたためてきました。以下のブログによれば、アトリエとしてご自分の絵の展示を始められたとのことです。
 http://hozumix.blog32.fc2.com/blog-entry-498.html
 「石木川ミュージアム」

◆2021年5月5日 朝日新聞
https://digital.asahi.com/articles/ASP516TSXP4WTOLB001.html?iref=pc_ss_date_article
ー機動隊に投げられても 嫁ぎ先で、ダム監視小屋に20年ー

 石木ダム(長崎県川棚町)の建設予定地で長年監視小屋に通い、ダム反対運動を続ける後進の住民たちを笑顔で励ましてきた川原(こうばる)集落の岩永サカエさん(81)が亡くなった。一緒に小屋に詰め、闘ってきた松本マツさん(94)が、その最期に居合わせた。

 ふたりは月・水・木曜に朝から小屋に詰め、火・金曜は町のいきがいセンターで骨休めをした。4月20日の火曜も手づくりの弁当を携え、一緒にセンターで風呂に入った。

 先に上がり着替えを終えた松本さんが「まだ?」と浴室をのぞくと、岩永さんの白い背中が湯船に浮いていた。心臓発作だった。

隣人とスクラム、畑に投げられても
 水没予定地の川原に暮らす13世帯の妻たちは、全員が集落外から嫁いできた。岩永さんは20歳のころ、佐賀県から嫁いだ。21歳で娘のみゆきさん(59)を授かると、身寄りを亡くした甥(おい)と姪(めい)も引き取り、町内の工場で働きながら主婦として7人家族を支えた。

 みゆきさんが生まれてほどなく、県がダム建設を目的にひそかに現地調査をし、地域に緊張が走った。10年後に改めて予備調査をする際、県は「地元の了解なしにダムは造らない」とする覚書を住民と交わしたが、建設が可能とわかると、3年後の1975年度に国の認可を得た。住民は対抗して、石木川の右岸に監視小屋をつくった。

 岩永さんの子育ての期間は、反対運動の胎動期だった。だが、それは82年5月に破られる。県が機動隊を導入して強制測量を決行した。42歳の岩永さんは隣人とスクラムを組み、幾度も畑に投げられながら抵抗し、測量を断念させた。

 以降、県側による切り崩しもあって、対象3集落の住民が次第に土地を離れていく。その時期、高齢になった義母だけでなく、ぜんそくの発作が続いて勤め先を早期退職した夫の誠一さんの介護も始まった。

「13世帯は家族」
 家庭の内外で重苦しい空気が流れるなか、同居のみゆきさんの長男寛さんの成長は、一筋の希望の光だった。だが91年に義母を送った後、95年には中学1年の寛さんが自転車で車にはねられ、命を落とした。

 みゆきさんは涙にくれながら母に告げた。「寛(の魂)が帰って来るのは、ここしかなかけん、私はここを動かんよ」

 「うん、そうね」

 岩永さんは、そう言ってうなずいたという。

 99年、孫の死で元気をなくした誠一さんも逝く。川原の人たちはそのつど農作業を中断し、一日かけて葬送してくれた。ほどなく岩永さんの小屋通いが始まる。当時は10人近い先輩の女性たちが詰めていた。

 外では苦しい胸中を見せず、常に笑顔だった。「機動隊にこなされたけん、知事さんが追い出しにかかっても一つも怖くはなか。13世帯は家族も同然」。3人を送ってからは仏教への信仰を深め、法話の冊子を手放さなかった。

 2019年9月、全未収用地の権利が国に移り、知事の判断一つで家屋の強制撤去も可能になった。みゆきさんは息子の死後、気になっていたことを母に尋ねた。よそから嫁ぎ、苦労を重ね、土地を手渡す孫もいない川原での今後を、どう考えているのだろう――。「お母さんは実際、どがんあると?」

 「今まで、みんなに良うしてもろたけん、裏切れん。最後まで一緒よ」

 岩永さんの葬儀は、身内だけで済ませた。あの日以来、眠れない夜が続いていた松本さんは6日後、ようやく弔問を終えた。初夏の日差しを浴びた山々を見回しながら、盟友に語りかけるように言った。

 「緑がきれいかね。やっぱり、ここは、ダムになす所じゃなかねえ」(原口晋也)