全国のダム問題に取り組んできた嶋津暉之さんが先月亡くなったことを、東京新聞の関口政治部長がコラムで取り上げています。
ダム問題の生き字引であった嶋津さんは、多くの新聞記者やジャーナリストの取材を受けました。紙面で紹介される嶋津さんのコメントは、ほんの数行であっても、それは膨大な時間を費やして行われたデータ分析や計算の結果でした。
八ッ場ダムをはじめ、全国のダム事業が推進される中、多くのマスコミがダム問題から遠ざかっていきました。そうした中で、東京新聞は複雑なダム問題を繰り返し取り上げてきました。嶋津さんをよく知る関口記者の追悼文は、嶋津さんの業績を伝えるとともに、ダム問題における報道の重要性についても考えさせる内容となっています。
◆2024年3月20日 東京新聞
ー<視点>水問題研究家・嶋津暉之さん死去 生き続ける「ダム反対」理論 政治部長・関口克己ー
全国各地のダム反対運動の理論的支柱で水問題研究家の嶋津暉之(しまづてるゆき)さんが闘病の末、2月に80歳で亡くなった。熊本県の蒲島郁夫知事が2008年に「白紙撤回」を表明した川辺川ダム問題を機に、私は不要な公共工事の「東西の横綱」とされる八ッ場(やんば)ダム(群馬県長野原町)と川辺川ダム問題を取材した縁で、嶋津さんに何度もお会いした。
嶋津さんは東大大学院で都市工学を学んだ当時、八ッ場ダム予定地を何度も訪れ、反対を訴える住民の声に耳を傾けた。東京都では公害局に配属され、工場の節水技術を指導。ダムは計画が先にあり、理由付けのために水需要の将来値がつくられるとの危機感を抱く。情報公開請求で集めた膨大な国の資料を読み解き計画の欺瞞(ぎまん)を追及。各地のダムを巡る数多くの訴訟や集会にも手弁当で携わり、ダム反対運動の先頭に立ち続けた。
国が八ッ場ダム計画を発表したのは1952年。首都圏の水道需要をまかなう「利水」目的が強調されたが、高度成長が終わると工業用水は減少。バブル崩壊後の90年代以降は家庭用の水道用水も減ると、政府は洪水対策の「治水」を前面に掲げ、建設を促進した。嶋津さんは、各地のダム計画について「建設ありきの虚構づくりはやめるべきだ」と批判し続けた。
八ッ場は民主党政権で中止から再開へと転じた混乱後、安倍政権が本体工事に着手した。完成目前の19年10月、水をためて安全性を確かめる試験湛水(たんすい)時に台風19号が襲った。首都圏では大きな被害が出なかったため、当時の安倍晋三首相は「利根川の被害防止に役立った」と言い放った。
一方、嶋津さんは国のデータを分析して反論した。試験湛水時の貯水量は極めて少なく、完成後の本格運用時の台風だったら緊急放流で氾濫の危険性を高めたと論破。治水効果が乏しいダム建設ではなく、河床掘削や堤防強化など河道整備による洪水対策への転換を訴え続けた。
死去翌月の今月3日、八ッ場ダム計画見直しを求めてきた市民団体「八ッ場あしたの会」の総会が都内であった。運営委員の渡辺洋子さんが「技術者の良心をもって、生活者に寄り添う市民運動を実践されてきた」と悼み、約50人の出席者が黙とうをした。
取材していた私も目をつぶりながら、十数年前の嶋津さんの嘆きを思い出した。「八ッ場は群馬県だけの問題とされ、首都圏全体に関心が広がらないんですよね」。慢心のそしりを覚悟で言えば、自らの記事の無力さに気づかされたあの言葉は、今も重い。
20年に完成した八ッ場ダムに昨秋、足を運んだ。吾妻(あがつま)川の清流はダム湖となり、「道の駅」もある観光地になっていた。陽光に照らされた湖面は静かだったが、周辺の地盤はもろく、将来はどんな牙をむき出しにするか分からない。ダム問題に生涯をささげた嶋津さんの問いは、今も生きている。