八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

苫田ダム完成から20年、反対闘争の歴史ふりかえる、開発水の7割は使われず

 岡山県に国が20年前に完成させた苫田ダムは、504戸に上る水没住民の反対闘争を圧し潰して建設が強行されました。
 地元メディアが反対運動の歴史を改めて振り返り、苫田ダムの問題を伝える番組を放送しましたので、お知らせします。

 ダム計画が公表されたのは1957年のことです。2000人を超える人々の暮らしを破壊し、高額の補償金で共同体の絆もモラルも破壊した挙句、運用を開始したダムは、開発水の3割しか使われていません。岡山市などの水道事業を圧迫し、水道料金大幅値上げの要因ともなっています。
 ダムによる破壊は「必要悪」として是認されてきた歴史がありますが、ダム行政が名目とする「ダムの目的」を問い直す必要があります。
 

◆2024年7月25日 岡山放送
 https://x.gd/7R5hW
ーダム湖に沈んだまち…あれから約20年 岡山県北の「苫田ダム」の歴史を考える【岡山】ー

 今から約20年前、ダム建設のため水に沈んだ町が岡山県北にありました。激しい反対運動の末、なぜ町は沈んだのか?その歴史をもう一度検証する動きが起きています。

1981年6月、ダム建設を推進する岡山県の長野知事を囲む旧奥津町の住民の姿です。強権的に進められる計画に住民は激しく反発しました。その町は今、ダムの底に沈んでいます。

(堀靖英 記者)
「半世紀近くに及ぶ住民闘争を経て作られた苫田ダム。穏やかな水をたたえるその下には、約500世帯が沈み、多くの人の人生が変わりました」

この夏、ダムの近くで反対運動の歴史を伝える資料展が開かれ、当時を知る人たちが集まりました。

(武田英夫さん)
「巨大なダムと巨大な権力によって500世帯の方々の人生が狂わされた」

資料から見えてくるのは、国や県が進めるダム建設計画に、強く反発する住民の姿です。1957年、新聞報道で計画が明らかになると、2年後には、奥津町議会がダム阻止条例を制定。当初、住民は一致団結してダム建設に反対していました。

「ダム反対運動を象徴するのが1958年に建てられた団結の碑です。当時の全村民1908人が団結してダムを阻止しようという思いを込めたものですが、その運動は時代を経て変わっていきました」県庁前や津山の商店街など、抗議運動は様々な所で展開されました。

しかし反対派の先頭に立っていた岡田幹夫町長はダム推進派の強い圧力を受けていました。次女の友保真由美さんが、当時を振り返ります。

(友保真由美さん)
「連日電話があったり、交代で家に押しかけたり。それは早く賛成をというようなことです」

そして住民も圧力を肌で感じることに。水没予定地で公共事業が抑制されていったのです。

(友保真由美さん)
「道はよそはきれいに整備されているのに、奥津町だけは昔のままだったり、電話も通じないとか、行政圧迫ですよね」

一方で、立ち退きを決めた住民には多額の補償金が支払われました。このアメとムチによって町民は徐々に分断されていきました。

(友保真由美さん)
「反対だった人が賛成。隣とあまり話さないとかコミュニティが崩れていくのは肌で感じた」

現在、苫田ダムの資料館にある1つのジオラマ。ダムに沈んだ町並みが克明に再現されています。このジオラマに衝撃を受けた若者がいました。津山市出身でこの春から、フジテレビの報道センターに勤務する頃安悠希さん。立ち退きを迫られた住民など40人に話を聞き、大学院の修士論文をまとめました。

(頃安悠希さん)
「最初計画が持ち上がった当初は、住民の皆さんはまさかこんなものができるわけないと思っていたが段々と時代のうねり、20年、30年と時が経過して世代が変わっていく、ライフスタイルが変わっていく中で、苦渋の決断で移転を受け入れられたことがお話を伺っていてわかった」

ライフスタイルが変化する中、子供たちに少しでも良い暮らしをさせたいと泣く泣く移転を決断した住民たち。ダム反対で固まっていた町民は切り崩され、多くが賛成に方針を変えていきました。

そして2005年に苫田ダムは完成しました。計画が明らかになってから実に48年の月日が経っていました。

(友保真由美さん)
「父が言っていたのは、一番の原因は年数に負けた、と言っていた。最初はガチっと阻止で固まっていたのが、段々崩れていって、皆年を取っていく、それに負けたと言っていた」

苫田ダムの反対運動は今に何を伝えるのか?元住民に話を聞いた頃安さんはこう感じています。

(頃安悠希さん)
「ふるさとというもの、先祖代々のお墓や、先祖が守ってきた田圃や畑があって、簡単に手放せないという当時の住民の方々の思いは、今となっては結構忘れられている感覚なのかもしれないが、人にとってのふるさとみたいなものを苫田ダムのエピソードを通して、皆さんに考えてもらえたら」

多くの人の苦しみの上に作られた巨大ダムですが、供給されている水の7割は使う見通しが立っておらず、本当に必要だったのかという意見もあります。強権的に造られた苫田ダム。歴史に何を残すのでしょうか。

◆2024年7月5日 RSK山陽放送
https://news.goo.ne.jp/article/rsk/region/rsk-1274204.html
ー504世帯が沈んだ苫田ダムの反対闘争の歴史から学ぶ「水が余っている 何のダムだったのか」今なお残る課題ー

 特集は2005年、吉井川の上流に完成した苫田ダムについてです。30年以上に渡って住民による阻止運動が繰り広げられた苫田ダム。現在、ダムのある岡山県鏡野町では阻止運動の資料を集めた展示会が開催されています。

 完成からまもなく20年。なぜ展示会を開くことになったのか。反対闘争の歴史とダムが抱える課題を取材しました。
 児島湾の上流90キロ。貯水量は県内3位を誇る苫田ダムです。水害や渇水対策を理由に計画が明らかになったのは1957年でした。

(武田英夫元県議)
「集落に住んでいた人を知っているから、やはり辛い」

 かつて県議として住民らとダム反対闘争に関わった武田さん。通い詰めた旧奥津町の中心部は今や水の下。ダム湖は奥津湖と名付けられています。

(武田英夫元県議)
「(沈んだのは)500戸ですから。2000人ぐらいです。年寄りから若い人まで含めて。2000人と言えば大きな集落ですから」

 建設計画が明らかになると住民は反対運動を開始。その後、合併で誕生した奥津町の議会は、町の方針である町是に「苫田ダム絶対阻止」を掲げます。反対運動もあり、当初、計画はなかなか進みませんでした。

(当時の住民)
「田んぼもあれば山もある。先祖を守っていかなければならない。水が溜まっても逃げない。そんな弱虫でないよ」

 しかし、1980年代に入り対立は激化します。3期目に入った長野士郎知事が、強硬にダム計画を推し進めようとしたのです。

(長野士郎元岡山県知事)
「Q今後どうされます?」
「そりゃまた会いに来ますよね。あんまり派手に来られちゃ困るということを言っていたなあ」

 行政がとったのは兵糧攻めでした。国は翌年、水没地区を河川に指定。町への補助金を完全にカットしたのです。

(日笠大二元奥津町長)
「なんちゅうかな、いじめいうんか、とにかくいじめていじめていじめ抜かれた感じがするな」

建設に反対する歴代の奥津町長は抗議の意味も込めて次々と辞任。反対闘争は激しさを増していきます。

「『蛇に睨まれた蛙ですわ』ほんまに。ここの地区の人がな。水没者の人が」
「Q蛇は誰ですか?」
「国か県か長野(元知事)か」

(長野士郎元岡山県知事)
「これを世間では自治に反するとかね、いろいろ言いすぎるということ一面はありますね。そうじゃないんです。やはりその、大きな利益のために一定の所で譲歩してもらわなきゃならん」

古里を守りたいと県庁に推しかけた人々。しかし、県は硬軟を織り交ぜ揺さぶりをかけました。1世帯当たり平均1億円とも言われる補償金。

「どんなんですか皆さん」

一枚岩だったはずの反対闘争は徐々に瓦解していきます。苫田ダムを巡る歴史を改めて問いたい。武田さんたちは今当時の写真や記事、裁判資料などを集め資料展示会を開催しています。ただ、伝えたいのは昔話ではないといいます。

(武田英夫元県議)
「写真に映っている人の単なる思い出ではなく、今の若い人、下流で生活している人にダム問題を考えようと」

多額の補償金による切り崩しや地域の高齢化。「町是」の柱でもあったダム阻止条例が廃止されたのは1994年でした。

「町民の意識も変化し、大方の同意も得られた中で阻止特別委員会条例の廃止を…」
「賛成諸君の挙手多数であります。よって本件は原案の通り可決されました」

30年以上に及ぶ闘いに幕が下り、504世帯がダムの底に沈むこととなりました。

「試験湛水を開始することを宣言いたします」

約2000億円の総工費と1つの町を引き換えに苫田ダムは完成します。ダムのほとりにひっそりとかつての団結の碑が移設されています。

(武田英夫元県議)
「奥津の人の全員の、全員の名前なんです」
「理不尽な者に賛成させられたという思いは今でももって暮らしている方、賛成の方、反対の方含めておられると思いますし」

そして、苫田ダムは今なお課題を抱えています。

(武田英夫元県議)
「そういう人からみれば必要だからダムをつくったのに、水が余っているのは余計に理不尽な訳ですよ。40万トンいるからダムをつくったのに、30万トンも残っているのでは何のダムだったのかと。そういう思いを今回の取り組みを通じて感じた」

(スタジオ)
ー長い反対闘争の末、完成した苫田ダム。しかし、その水は、余っているんです。苫田ダムによって利用できる水の量は1日40万トン。現在、岡山県と市や町による団体が買い取っていますが、実際に使用しているのは2022年度で約8万トンです。

ー例えば利用の多い岡山市では、約10万トン分の契約を結び、年間21億円を払っています。ただ実際に使われているのは4万トン余り…。半分以下なんです。

ー水の供給能力はかなり大きいのですね。一方で需要が増える見込みは低く、現在進めている水を取り入れる施設の工事は休止する予定になっています。

ーさらに自治体の負担軽減や将来、水を使う可能性も考慮して県は毎年約6億円もの予算を計上しているんです。
「大雨の季節、ダムは治水の役割も担っているので、単純に価値を判断することはできませんが、自治体による水道料金の値上げのニュースも増えています。見通しが甘かったのではないかとも感じますね」

ー鏡野町で開催中の資料展示会にはかつての住民が多く訪れ、写真を見て涙する人もいるとのことです。人口減少社会が進むなか、その歴史から学ぶことは多いのではないでしょうか。

◆2024年7月2日 津山朝日新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/9041b741f4583907bcd4c08ceefa5cee93441e0b
ー苫田ダム建設反対運動の歴史を伝える資料展 人々が残した記録と記憶 象徴的な129点/岡山・鏡野町ー

 苫田ダムの建設をめぐり約40年に及んだ反対運動の歴史を伝える初の資料展「いまあらためて苫田ダムを問う」が、岡山県苫田郡鏡野町竹田のペスタロッチ館で開かれている。約500戸に及ぶ世帯を水没させたダムの完成から20年。国と県にあらがった人々が残した記録と記憶を後世へと引き継ぐ。7日まで。

【写真】反対運動の資料が並ぶ会場

 運動に関わった人や関係者でつくる実行委(武田英夫代表)主催。メンバーが収集し、町に寄贈した資料の中から、写真や映像、文書資料など象徴的な129点を並べた。

 1957年に明らかになったダム構想に対し、水没地区の旧奥津町が町是とした「絶対阻止」の看板、阻止同盟結成時の地元紙の記事、県政の強行姿勢と戦う集会やシンポジウムの写真、裁判資料などが展示され、激しい運動の様子を回顧している。

 重機で取り壊される家屋を眺める住民の背中や水没前の神社の姿、山肌を削って進められる土木工事の様子など、ダム問題に揺れながら失われる古里をとらえた貴重な写真もある。

 反対派町長の相次ぐ辞職など関連する出来事を記した年表も掲示され、来館者からは「国や県の強引なやり方に、住民にとっては残るも地獄、去るも地獄だったろう」といった声が聞かれた。

 初日の29日は、旧奥津町が「苫田ダム阻止特別委員会条例」を制定して65周年の記念日。実行委は「政治と行政のあり方を見直し、苫田ダムのような強権的な手法、右肩上がりの大型開発といった理不尽を繰り返さない時代への示唆としたい」と話している。