八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

2024年 秋の現地見学会を開催しました。

 さる11月9日、現地見学会を開催しました。今回はコロナ禍で2019年以来できなかったバスによる見学会を5年ぶりに行いました。

 今回の現地見学会の主なテーマは「ダム湖周辺の地域振興施設」と「水没地の歴史遺産」でした。
 当日の主な見学場所:道の駅・吾妻峡(東吾妻町) →川原畑地区代替地(穴山沢盛土造成地とクラインガルテン)→ダム堤 →エレベーターで吾妻渓谷へ →川原湯地区の打越代替地、温泉街ゾーン →源泉公園 →天明泥流ミュージアム(林地区) →八ッ場林ふるさと公園の地すべり対策 →八ッ場湖(みず)の駅丸岩(横壁地区) →住民センター・長野原町庁舎 →道の駅・八ッ場ふるさと館

 当日の配布資料を以下に転載します(一部省略・修正)。           

八ッ場ダム周辺の地域振興施設
 ダム事業により、水没、道路建設などのために立ち退きを余儀なくされた住民がいた長野原町と東吾妻町では、「利根川・荒川水源地域対策基金事業」(八ッ場ダム三事業の一つ、総額178億円)で多くの地域振興施設がつくられた。

◆群馬県ホームページより「ぐんま広報9月号」(2020年9月6日発行)

消えた公社構想
 ダム事業による移転470世帯のうち、422世帯(うち水没290世帯)が長野原町、48世帯が東吾妻町の住民であった。

ダム堤に隣接する川原湯地区の打越代替地は、水没地にあった川原湯温泉の代替地として盛り土と切り土で造成された。

 地元がダム計画を受入れた1980 年代、ダム事業の生活再建策として「水源地域振興公社」(仮称)設立による約200人(当時の川原湯地区の水没世帯数は201世帯)の雇用創出が想定された(「生活再建案」、群馬県、1980年)。
 地域振興施設の整備費用はダム事業費で賄われるが、施設完成後の維持管理は地元負担である。ダム完成後、施設を運営する公社が八ッ場ダムの関係都県によって維持管理されれば、住民の雇用が公務員並みに確保され、公社がセーフティーネットの役を果たすと期待された。しかし2000年代後半、公社構想は下流都県との窓口であった群馬県と長野原町との約束に過ぎず、関係都県が了承したものではなかったことが明らかになった。

地域振興施設の運営
 地域振興施設は町の所有である。町は5年ごとに各施設の指定管理者を選定する。住民が運営する施設が黒字になれば30%を町に譲渡する。赤字の場合は運営者(住民)が負担する。

1.地元住民が運営する施設
〇八ッ場茶屋(川原畑地区)

 ダム堤の上に位置。整備費用/約1億4000万円。2020年オープン。
 川原畑地区の住民による株式会社方式。ラーメン店、土産物屋。

〇川原湯温泉あそびの基地NOA(川原湯地区)
 JR川原湯温泉駅の脇に位置。2020年オープン。事業費 22 億 9000 万円。
 川原湯温泉の旅館主らが株式会社を立ち上げ。テナントとして長野原町の観光振興を行う一般社団法人・つなぐカンパニーながのはら、有限会社イノーバー・ジャパン(東京)が運営するキャンプ場(グランピング)、温泉施設「笹湯」、クラフトビール醸造所、カフェ。

〇道の駅八ッ場ふるさと館(林地区)
 2013 年開設。事業費/約8億円。地元住民による株式会社方式。
 当初の株主約60人。住民30人雇用。入込数は昨年度、100万人近くに達し、地域振興施設の中で最も集客に成功。 

〇八ッ場湖(みず)の駅丸岩(横壁地区)
 2020年に開設した「湖(みず)の駅丸岩」と屋内運動場を地元、横壁地区の住民が株式会社方式で運営。

2.公営の地域振興施設
〇クラインガルテンやんば(川原畑地区)

2014年~。町営賃貸農園付きコテージ10区画、賃貸料一戸48万円/年。

〇王湯会館(川原湯地区)
 2014 年~。川原湯温泉の源泉を引湯する町営日帰り温泉。ダムに沈んだ旧源泉の泉源(標高574㍍、ダムの満水位583㍍)は井筒工法で保護。

〇やんば天明泥流ミュージアム(林地区)
 2020年開設。整備費/約18億6000万円。年間を通して学芸員講座、児童対象のイベント等を積極的に行い、地域住民への啓発活動にも力を入れる。

〇住民総合センター(長野原地区)
 町庁舎に隣接してダム湖畔に2018年開設。総事業費29億円のうち13億円を基金事業が負担。大ホール、図書室等。久々戸(くぐど)遺跡の跡地に建設。

〇長野原・草津・六合ステーション(長野原地区)
 2015年、JR長野原草津口構内にオープン。町観光協会が運営。 軽食、土産。

3.ダム湖観光
〇水陸両用バス

 2020 年開業。当初、長野原町は日本水陸両用車協会に運行を委託したが23年より地元の民間会社Dts creationへ委託。事業費約1億3000万円。料金は当初の3500円(80 分)→2500 円(50 分)へ値下げ。

〇観光船
 2022年より運航。水陸両用バスが運航を休止する冬季限定。料金2000円(約40分)。長野原町が民間会社、Dts creation へ委託。事業費/約2億5000万円(観光船2隻、桟橋整備)。首都圏と草津温泉のバス路線を運営するDts creationは、草津と八ッ場を結ぶバス、ダム湖周遊バス「八ッ場ぐるりん」も運営(一日乗り放題800円)。

4.東吾妻町の八ッ場ダム関連地域振興事業
①道の駅 あがつま峡  2014 年開設。総事業費13億2000万円。

②自転車型トロッコ アガッタン
 2021年全区間開業。吾妻峡に残されたJR吾妻線の廃線を利用したレールバイク。利用料:片道3000円、往復5000円(一台)。大人数の利用は不可能なため、利益を上げるのは難しいが、吾妻峡の観光に一役買っている。
 吾妻峡の観光は、ダム建設前は長野原町(川原湯温泉)が主体だったが、現在は東吾妻町が担っている。観光シーズンにはバス運行も行われている。

八ッ場ダム事業による発掘調査
(今年6月、八ッ場ダム事業における発掘調査を行った公益財団法人・群馬県埋蔵文化財調査事業団が上毛新聞社より刊行した「八ッ場の考古学 古の記憶」を参考にした。)

水没地にあった川原湯温泉駅周辺。吾妻川の渓畔林と線路の間の土地からも天明泥流で被災した畑跡が出土。2015年4月23日撮影。

 八ッ場ダム事業の発掘調査は1994年に始まり、ダムの試験湛水が始まる直前の2019年9月まで行われた。当初の調査対象面積は約57万平方メートル、予算額は約66億円であったが、発掘調査が進むにつれて新たな遺跡が次々とみつかり、最終的には調査対象面積が約103万平方メートル、調査費用は約137億円へと膨らんだ。
 発掘調査終了後の報告によれば、調査遺跡は66遺跡(このうち長野原町の遺跡は52)にのぼった。遺跡の中には縄文時代から江戸時代まで、各時代の遺跡面が重層していたところも多かった。
 八ッ場ダムの事業用地となった約6キロメートルの吾妻川沿いの段丘(水没地含む)は標高約530~650メートルで、長野県、新潟県の県境に近い。周辺には9つの峠があり、いずれかの峠を越えなければ他所からダム建設地域には辿り着けないが、関東地方と長野県、新潟県を結ぶ交通の要衝に位置している。

縄文時代
 最も古い出土遺物は、縄文草創期(約12000~9000年前)に遡る。草創期の遺跡の一つは、ダム堤脇の水没地にあった石畑Ⅰ岩陰遺跡(川原畑地区)である。遺跡のあった大岩の脇を水質の良さで知られた八ッ場沢が流れていた。

川原畑地区の東宮遺跡。2017年11月14日撮影。

 縄文時代で最も大きな集落が出現したのは縄文中期後半である。吾妻川の左岸側には東宮遺跡(川原畑地区)、林中原Ⅱ遺跡(林地区)、長野原一本松遺跡(長野原地区)が、右岸側には石川原遺跡(川原湯地区)、横壁中村遺跡(横壁地区)と、現在の大字に対応する5つの集落がいずれも約二キロ間隔で出土している。大規模集落は大半が縄文後期(約4000~3000年前)前半まで1000年以上も継続し、合計で100棟を優に超える竪穴建物を残している。
 約3500年前には集落の多くが終焉を迎えるが、川原湯地区の上湯原にあった石川原の集落は横壁中村の集落とともに、その後さらに1000年も続いた。いずれも背後の山に遮られ、冬は午後3時になると日が陰り、地面が凍る土地である。石川原遺跡では、周辺でクリ林の維持管理が行われていたことが確認され、70基もの配石墓、トチやクルミの実を加工した水場遺構も出土した。石川原遺跡で出土した珍しい土偶や岩版はミュージアムで見ることができる。
 なお長野原町では、八ッ場ダム上流の貝瀬(かいぜ)地区で國學院大學が居家以岩陰(いやい・いわかげ)遺跡の学術調査を行っており、縄文早期の人骨が大量に出土。国指定史跡となることが確実視されている。

平安時代
 発掘調査で縄文時代と共に多かったのが平安時代の遺跡であった。群馬県で稲作が始まった弥生中期以降から古墳時代、奈良時代、平安時代前期までの約千年間の集落跡は僅かであった。この地域は狩猟採集生活にふさわしい環境に恵まれたが、日の当たる水場に近い平坦な土地が必要な稲作には不向きだった。
 この地に再び人々の営みが見られるのは9世紀中頃である。背景に、租税の徴収方法が変化した影響が考えられる。当時の律令の施行細則をまとめた『延喜式』によれば、上野国の負担雑物として零羊角、鹿皮、膠(にかわ)、猪蹄があった。これらはイノシシやシカ、カモシカの捕獲によって生産が可能になる。このため、他地域から狩猟に適したこの地域へ住民が移住したと想定されるが、当時の社会状況を考えると住民の強制移住が行われた可能性もあるという。
 集落の周縁からは多数の陥穴(おとしあな)が出土、その数は千基以上に上るという。屋外の焼土遺構は、動物の皮や骨を煮る膠製造の施設であった可能性が高いという。こうして突如出現した集落の多くは、10世紀後半には姿を消す。

江戸時代・天明泥流到達以前の山村風景
 1783年8月5日、浅間山噴火に伴い発生した火石混じりの大量の土砂は、嬬恋村の鎌原を襲い477人を犠牲にしたのち、全流長76キロの吾妻川の上流から1/3ほど下った付近の崖から流れ込み、利根川まで流れ下った。泥流は関宿(千葉県野田市)で利根川本流と江戸川に分かれ、江戸川河口付近では多くの死者が打ち上げられたという。天明泥流による流域の死者数は千人を超える。

川原湯地区下湯原(川原湯温泉駅周辺)の発掘調査。

 水没地の集落は吾妻川の河岸段丘上にあり、河床との高低差は川原湯付近では30~40メートルもあったが、集落全体が泥流に埋もれた。発掘調査によりシャベルカーで土砂が除去されると、発災時点の村の姿がタイムカプセルのように現れた。そこには、家屋敷が道沿いに集められ、防風林や境界樹木等はなく、隙間なく平らに整地された畑地が広がっていた。道路や水路、敷地などは石組み等で整備され、現在の圃場整備のように計画的に造成されていた。畝と畝との間には泥流発生前に降った火山灰が白い筋となって残り、畝幅は多くの畑で約40センチ、畝の高さは約10センチ。どの屋敷跡にも馬屋があったことからも馬鋤の可能性が高いという。稲作が不向きなこの地域では年貢を銭で納めており、換金作物(麻など)として有効なものを選択した可能性が考えられるが、それを示す文書等の記録はなく、発掘調査でも決定的な手掛かりは得られていない。