群馬県は11月4日、国道145号線の八ッ場ダム予定地の一部区間を11月18日より供用廃止にすると公表しました。
県報や群馬県の公式サイトに掲載された通行止めの区間は、
「吾妻郡長野原町大字林字久森1772番6地先 ~同郡同町大字川原畑字八ッ場1098番6地先まで」
と記されていました。
http://www.pref.gunma.jp/contents/000305252.pdf
群馬県報(2014年11月4日付)2ページ目
具体的には、上湯原橋の左岸側にある(長野原)第一小の信号から、吾妻渓谷の中ほどにある長野原町と東吾妻町の町境(かつて熊の茶屋があった所。今は道路の両脇に駐車スペースが設けられている)までの区間です。
吾妻渓谷の町境の上流側が八ッ場ダムの本体工事の予定地であることから、上湯原橋からここまでの区間、本体工事用の大型車両が使用できるよう、拡幅工事をして国道を廃線化する、というのが国交省と群馬県の説明する通行止めの理由です。
ところが、11月4日、現地では、下流側の通行止め地点を示す看板が、吾妻渓谷の入り口の渓谷パーキング付近に設置されました。ここから通行止めとなると、吾妻渓谷の中の国道は全区間が通行止めということになり、観光への影響はさらに深刻なものとなります。
(写真は、11月4日に吾妻渓谷の入り口に近い渓谷パーキング周辺に設置された看板。)
地元自治体の東吾妻町産業課によれば、通行止め等に関する今後の情報は以下の通りです。
●11月18日正午より、渓谷パーキング(吾妻渓谷の下流にある吾妻峡橋分岐交差点や東京電力松谷発電所、もみぢ茶屋のあるあたり)より国道は車両通行止め。歩行者のみ通行可。
*理由:八ッ場ダム本体工事の関係車両が通行する為。
●12/1より、歩行者も通行止め。
*理由:12月より、吾妻渓谷の山側の遊歩道が冬期閉鎖となるため、国道を利用する観光客も減少するから。
●吾妻渓谷を走る国道は、長野原町と東吾妻町の町境から上流側では廃線となるが、東吾妻町側の国道は来春、渓谷遊歩道の冬期閉鎖が終われば、開放される予定なので、廃線とはならない。開放時期は未定である。
●町境にあるトイレ(写真右)は群馬県の施設であるが、これまでは長野原町が管理をしていた。トイレの場所は長野原町にあるが、現在は東吾妻町が管理している。
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11月14日、群馬県のホームページにも国道の閉鎖区間は、「第一小学校入口交差点(吾妻郡長野原町大字林字久森1772番6地先) ~吾妻峡橋分岐交差点まで」とする新たなお知らせが掲載されました。
http://www.pref.gunma.jp/06/h2800043.html
本体工事予定地は吾妻渓谷の上流部にありますので、事業の是非は別として、本体工事のためにその区間の国道を閉鎖を閉鎖しなければならないことは理解できます。しかし、工事車両が通行することを理由に、下流側の国道まで閉鎖するという説明は、説得力がありません。
これまで八ッ場ダム予定地では、工事車両が頻繁に通行する道路がいくつもありましたが、、一般車両が締め出されることはなく、地元車は工事車両に優先して通行できる措置がとられていました。
渓谷の山側の国道は、アップダウンの激しい細い山道ですので、積雪や凍結によって事故の危険性が増す冬期間は、これまでも閉鎖されてきました。しかし国道は冬場も通行可能で、裸木が林立する景観や幽玄なな雪景色を間近に楽しむことができました。国道沿いにはガードレールが設けられており、工事車両が通っても歩行者が危険にさらされるわけではありません。
昭和10年に国の名勝に指定された名勝・吾妻渓谷の国道は、わが国有数の渓谷美を嘆賞できる大切な道路です。この道路が廃線となったり、閉鎖されるというのに、道路を管理する群馬県は、18日の閉鎖日直前までこのことを明らかにしてきませんでした。ホームページに情報を掲載したり、後で通行止め区間を書き換えたりしても、記者発表はしていないようで、関連記事も見あたりません。
国交省の顔色をうかがう群馬県も、ダム事業の推進のみに邁進する国交省も、観光への配慮は皆無という情けないありさまです。
【小蓬莱ー吾妻渓谷十勝の一つ】
渓谷の川幅が一気に狭まる八丁暗がりの入り口に聳える岩山。国道からよくみえる雄姿も11月18日以降は見られなくなります。頂上の見晴らし台は、上流側の景色を眺め渡す絶好のビューポイントでしたが、八ッ場ダムは小蓬莱の正面に立ちふさがり、視界を遮ることになります。ダム本体は小蓬莱の頂上より30メートル以上高くなるということです。
【大蓬莱ー吾妻渓谷十勝の一つ】
長野原町と東吾妻町の町境に聳えています。対岸上流側の小蓬莱と合わせて、新蓬莱とも呼ばれます。国道が閉鎖されると、この風景も見られなくなります。
【八ッ場出土石造物】
長野原町と東吾妻町の町境、長野原町側に展示されています。かつて吾妻渓谷は交通の難所でした。江戸時代の頃には、急峻な吾妻渓谷の山腹の岩場を切り開いて、道陸神峠(どうろくじん・とうげ)を越える道がつくられました。石造物に添えられた説明版によれば、この石造物は町境を流れる境沢に架かっていた橋の部材と考えられるということです。
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