八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

「巨大ダム工事の弊害 住民振り回し対立生む」(川原湯温泉協会長投稿記事)

 群馬県で最も購読者の多い上毛新聞には「視点・オピニオン」という投稿欄があります。著者は県内で活躍する人の中から委員として選ばれ、期間をおいて連載記事が掲載されます。
 現在、委員として選ばれている中に、八ッ場ダム予定地にある川原湯温泉の協会長を務める樋田省三さんがおられ、昨年11月に続いて投稿記事が掲載されました。樋田さんは水没予定地の温泉街でやまきぼし旅館を経営していました。川原湯温泉の移転地である打越代替地の王湯会館前でレストランや宿泊施設の経営を始めるということです。
 前回の投稿記事と併せて転載します。

◆2018年1月13日
https://www.jomo-news.co.jp/feature/shiten/27273
ー巨大ダム工事の弊害 住民振り回し対立生むー

 初めて「八ツ場ダム建設」計画が発表された1952年、一時中断を挟み再度計画が発表された65年、その度に行われた反対運動の激しさは、皆さまもご存じのことと思います。巨大公共工事計画に人生の大半を費やして、完成したダムを見ることなく逝った人たちがたくさん存在することも私は伝えたいと思うのです。そこで2人の人物を選びました。まず一人は、私の父である樋田勝彦。もう一人は、萩原好夫さんです。

 今夏、やっと自宅が完成し荷解きをすると、ダム関係書類の中から萩原好夫さんが中心となって活動していた「町づくり研究会」の計画案集成という360ページにもなる本が出てきました。初めてじっくり読みました。その基本構想は、現地再建すると移転完成までに、時間がかかりすぎるため、別の場所に村ごと移転してリゾートタウンを作る内容でした。すごい! ただただ、感嘆しました。

 好夫さんは、隣接する旅館「養寿館」のご主人です。私の父よりも20歳以上年上のため直接の接点が少なかったのですが、エライ人にも顔がきく研究熱心なおじいちゃんでした。三十数年以上も前にこのような発想を具現化しようと取り組んでいたことを今更ながら尊敬してしまいます。しかし、この移転計画は、斬新でとても魅力的ですが、慣れ親しんだ土地・先祖の眠る墓を離れる計画は、当時の人々には受け入れ難いモノであったと想像できます。

 その時点で住民の主流は、現地に再建して再出発すること。その条件付き賛成、現地再建を考えるトップに父がいました。反対の立場の方々もいましたし、毎回、会議は紛糾していました。それは、暗い部屋で電気もつけずに考え込んでいる背中が物語っていました。見かねた私は「もうやめよう。自分の家のことだけ考えればいいよ」と、涙ながらに訴えた夜もありました。しかし、その時の村の人たちを責める気は、全くありません。誰もが手探り状態で真剣に新しい川原湯を思っての食い違いですから…。

 私が悔しいのは、長引くダム建設の中で今度は、村の中で対立が始まってしまったこと。これが、巨大公共工事の一番の弊害であると思うのです。昨日までの友達が背中を向け、時には大声を張り上げてののしり合ったりする。何故このような苦痛に満ちた生活を強いられなければならないのか? 本来、国民生活が向上するための工事なのに…。

 92年、基本協定が締結。ダム建設に係る現地調査が本格化し、移転に向け歩み出しました。7年後、99年5月9日に好夫さんが亡くなりました。涙ながらに弔辞をした私の父、勝彦も11日後の20日早朝、後を追うように旅立ちました。59歳でした。今2人はダムサイトに一番近い墓地で、建設中の本体工事を見ながら眠っています。

川原湯温泉協会長 樋田省三 長野原町川原湯

 【略歴】老舗温泉旅館「やまきぼし旅館」社長。跡見学園女子大と長野原町による活性化策の川原湯温泉ブランド化プロジェクトの座長を務める。日本大経済学部卒。

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◆2017年11月25日
 https://www.jomo-news.co.jp/feature/shiten/18057
ー八ツ場の未来語る前に 断腸のダム受け入れー

  「八ツ場ダム」本体完成まで1年半となり、計画から約70年と言う年月を費やしてきた巨大国家プロジェクトが、一つの区切りを迎えようとしています。

 私は、水没するダムサイト際で温泉旅館を経営する川原湯の人間です。いよいよ大詰めを迎えた中、川原湯の今昔物語を私が関わり続けてきた「まちづくり」も交えて、皆さまにお伝えできればと考えております。

 旅館の5代目として川原湯に生を受けた1964年には、既にダム問題は存在していました。当時は、全村挙げての「ダム反対」時代でした。その文字が倉庫の外壁や屋根に大きく書かれていたり、国道から川原湯に入ってくる数カ所のつじには、国関係者の侵入を知らせるためのドラム缶で作った半鐘が木につるされていたのを覚えています。私が幼少期の昭和40年代は、温泉街がとても盛況な時代で父も忙しく仕事する傍ら、夜はダムの会議という生活を繰り返していました。その生活を見ながら育ちました。私が物心ついた時から、父は条件付き賛成の立場をとっていたので、絶対反対でないのは知っていましたが、村の大多数の人は反対の立場でいたようでした。

 中学卒業後、8年間県外で過ごした87年、23歳の私は川原湯に帰って来ました。もちろん、家業を継ぐためなのですが、一番の理由は新しい川原湯を考え創ってゆくことでした。

 そうです、私が不在であった8年の間にダムに対する地元の様子が大きく変わっていたんです。ほぼ住民全員が反対の立場で国と協調する気配も感じなかったので大変な驚きでした。後から聞いた話ではその時期、反対派の組織から1人抜け2人抜けといったことも起こっていたそうです。昭和から平成に年号が変わる変換期に差し掛かっていた日本、同じくして川原湯も大きく変わろうとしている時だったのです。

 では、何がその要因なのか? 一つは、建物の老朽化。崖地の悪条件の土地に建築されている川原湯温泉街、代々住み継がれていた農家造りの上湯原、どの家も建て替え時期にきていました。しかし、一番の要因は、戦いに疲れてしまったからだと私は思います。その頃は、計画から40年が経過していましたし、絶えることなく新しい職員が配置され続ける国と違って、住民は次世代が育つまでの間、同じ人間で戦い続けるのです。それは、まるでゴールの見えないマラソンです。誰もが、計画を受け入れざるをえない状況に肉体的・精神的に追い込まれていたと思います。

 先人たちは断腸の心でこうした選択をしたはずです。正しい判断だったのかどうか正直分かりません。でも、生かすのも、殺すのも、これからの私たちの歩み方次第だということだけは、よく分かっています。